大西監督が抜擢したロックの小笠原博氏は、「試合後に必ず倒れる男」として有名だ。高校まで野球部で、習志野自衛隊でラグビーを始めた小笠原氏は当時としては巨漢の身長184センチだったが、大西監督が真に目をつけたのは、“炎のごとき闘争心”だった。
「小笠原さんは常にピッチで全力を出しきり、試合が終わるといつも脱水症状から全身痙攣を起して病院に運ばれました。1971年のイングランド代表との第1戦後も全身痙攣で大阪市内の病院に緊急搬送されましたが、若手選手を自分の代わりにベッドに寝かせて病院を脱走して、最終戦が行われる東京に向かいました。病院を脱け出して強行出場した小笠原さんの奮闘もあり、最終戦でジャパンは3対6と母国イングランドをあと一歩まで追い詰めた。この試合は伝説の代表戦として今も語り継がれます」(藤島氏)
ラグビージャーナリストの小林深緑郎氏が「W杯最大のスター」と評するのは、センターの朽木英次氏。朽木氏は“ミスターラグビー”こと平尾誠二氏(故人)とのコンビで活躍し、第1回(1987年)、第2回(1991年)のW杯に出場した。通算4トライは、W杯日本最多記録である。
「パスのうまさに定評がありますが、実は相手との間合いを瞬時に詰めて精確に放つタックルが見事で、日本全体のタックルを変えた男です。第1回大会では大柄なオーストラリアのナンバーエイトにタックルを突き刺し、第2回大会でスコットランドの主力ギャビン・ヘイスティングがタッチライン際を疾走した際は、体ごとぶつかってラインの外に押し出しました。後年、その試合のレフリーが僕に『本当はショルダーチャージだったけど、体格差をものともしない好プレーだったので反則の笛を吹かなかった』と明かしました」(小林氏)
ジャパンには外国出身の選手も多いが、最初のレジェンドとなったのがトンガ出身のシナリ・ラトゥ氏だ。1985年に「そろばん教師」になる約束で大東文化大学に留学すると、持ち前のナチュラルパワーで大暴れし、宿沢広朗監督(故人)のもとでジャパン入り。1990年に東京で行われた第2回W杯の予選では、母国・トンガと運命の決戦を迎えた。
「ラトゥさんのトンガ生まれの愛妻は、試合前夜に『あなたはジャパンのために尽くせ、私は自分の国を応援する』と夫に告げ、トンガ人同胞とともに観客席に陣取りました。日本の勝利後、負傷者の通訳のためトンガ代表の宿舎を訪問することを日本協会から指示されたラトゥさんは、“殺されるんじゃないか”と心配したそうです。しかしトンガ代表の監督は『私たちが弱いから負けただけだ』と母国出身の日本代表選手の来訪を快く受け入れました」(藤島氏)