◆夢見ることを野放しにされ、夢を強要されていた
石井さんがいま、どうしているか知るよしもないが、ちゃんと定職についていなくとも、地に足のついた生活をしているのだろうかと思いをめぐらせることがある。そして、清掃と介護のダブルワークをして、明るくてどこでも人気者なのだというもう還暦も過ぎただろう彼のお母さんは、今も元気なのだろうかと気がかりになる。あのとき取材した声優コースを抱える学校はカリキュラムこそ変わったが現在も存在する。そしてこの学校に限らずいまも、声優になるための専門学校は雨後の筍のように乱立し続けている。そんな声優になりたい人々が、どれだけの厳しい現実を直視しているのだろうかと心配になる。
冒頭で触れた勝田先生は入学希望者に「声優なんかなるな」と言った。私がお話をうかがったときも「声優になるなんてみんなどうかしてるよ」と言いのける人だった。それでも見どころのある人材には全力で取り組み、選ばれし者として業界に送り出した。本来、芸とはそういうものだ。芸は理不尽で残酷で、人間を不幸にするものだ。それでもかまわない「どうかしてる」人だけが挑むのだ。結果はもちろん完全な自己責任、優勝劣敗だ。
いまさら石井さんの通っていた学校を批判するわけではない。営利目的なら仕方のない話だし、少ないながらもプロは育っている。それでも、石井さんのような、夢ばかり語るような未経験のアラフォーが名実ともにプロになれた、という話は聞かないが──。
いまだから言うわけではないが、はっきり言って石井さんが声優になれるわけがないし、ラノベ作家もまあ、無理だろうと取材時から思っていた。「もしかしたら」と可能性もなきにしもあらずだが、スーザン・ボイルは発見されるのが遅かった天才の奇跡の話だ。リアルは残酷だ。そんなところに気づかせることなく商売するのもプロだ。憧れや夢をビジネスに変えるプロ集団にかかれば、子供おじさんなどひとたまりもない。商売としてはありだろうが、社会はこのような夢の搾取によっても蝕まれている。
思えば団塊ジュニアは夢見ることを野放しにされていた部分もあるし、夢を強要されていた部分もある。時代といえばそれまでだが、1980年代の日本における夢とはキラキラしたものだった。それがバブルによる装飾だったのか、キラキラしているように見せかけているだけだったのか──。
それより、声優に限らず全国の“子供部屋の石井さん”をこれからどうすればいいのかという話だ。私たちも上の世代も、ここまで多くの専門性のない中高年独身無業者を社会が抱えるとは思っていなかった。時がいずれ解決すると思っていたはずが、時がすぎるだけで解決することのないまま社会保障の重荷になりつつある。いや、重荷となるのは明らかだろう。
日本国憲法第25条、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」とある限り、何人たりとも救わなければならないのが建前だが、私たちの社会は、多くの石井さんの将来を救うことはないだろう。社会的コンセンサスとして、独身男性の無業者は自己責任とされているのが現実だ。
しかし石井さんが放置された先には石井さん個人の問題だけではない、彼らの存在による社会不安の広がりが懸念される。永遠の少年や夢見る少女は少年少女だから許されるのであって、中年男性には許されない。そんな大勢の石井さんが存在するという現実から目を背けているのが現代社会、しくじり世代のしくじりたる所以と怖さはまさにそこにある。
●ひの・ひゃくそう/本名:上崎洋一。1972年千葉県野田市生まれ。日本ペンクラブ正会員。ゲーム誌やアニメ誌のライター、編集人を経てフリーランス。2018年9月、評論「『砲車』は戦争を賛美したか 長谷川素逝と戦争俳句」で日本詩歌句随筆評論協会賞奨励賞を受賞。2019年7月『ドキュメント しくじり世代』(第三書館)でノンフィクション作家としてデビュー。12月『ルポ 京アニを燃やした男』(第三書館)を上梓。