レスリングとは対照的に、モスクワ代表の多くが、不参加を機に第一線を退いたのが柔道だ。ロスでも代表となったのは山下泰裕だけである。
藤猪省太(当時・省三)は、モスクワまでに5度の世界大会の日本代表になり、中止となった大会を除いてすべて優勝。モスクワ五輪でも金メダルが確実視されていたが不参加となり、その後、静かに引退した。
山下と同じ東海大出身の柏崎克彦は、大学時代にはレスリングやロシアのサンボといった他の格闘技の技術を取り入れ、卒業後は茨城県の県立高校で教壇に立ちながら、モスクワの代表に。寝業師として知られた柏崎も、1982年には指導者に転身した。新旧交代の進んだロスでは無差別級の山下のほか、95kg級の斉藤仁など、計4人の金メダリストが誕生した。
体操の梶谷信之(現・岡山大学教授、当時の所属は紀陽銀行)は、清風高校および日本体育大学の1年後輩である具志堅幸司(現・日体大学長)と共に、Wエースとしてモスクワに臨むはずだった。ボイコットの報は、合宿の練習中に聞いた。代表選手たちは落胆し、練習を中止して皆が自宅に帰っていったという。
「怒りと共に情けないという気持ちで一杯でしたが、政府を恨むこともできず、どこにも気持ちをぶつけることができない状況でした」
体操はモスクワの前年となる1979年の世界選手権の団体で2位に終わる。五輪と世界選手権で20年間一度も譲らなかった団体王者の座をソ連に譲った。王座奪還を期した舞台がモスクワだった。