強引な勢力拡大は深刻な軋轢も引き起こした。
昭和15年、浪曲師・広沢虎造の興行利権を巡りトラブルとなり、山口登は浅草で下関の籠寅一家(現・合田一家)組員に刺され、その傷が元で死亡した。山口組二代目の死は、芸能トラブルが引き金だった。
2017年下半期の朝ドラ『わろてんか』のモデルになった吉本興業の創業者・吉本せいは兵庫県西宮市に居住し、個人の合弁会社から会社をスタートさせた。株式会社吉本興業は昭和23年に設立登記されているが、山口組二代目とは戦前から深い関係があった。
〈二代目山口組組長であった山口登は、興行師としても阪神間に売り出していたから、女手一つの吉本せいにとっても、何かあると相談していたものと思われる〉(兵庫県警が編纂した『山口組壊滅史』より抜粋)
戦後、山口組を継承した三代目・田岡一雄も神戸芸能社を資金源とし、所属する美空ひばりから「おとうさん」と呼ばれ、離婚会見にも同席した。現在でもヤクザの二次、三次団体に「〇〇興行」「〇〇興業」という名称があるのは、ヤクザと興行が切っても切れない関係だった名残である。
そして演じる劇もヤクザもの
話を千代と弟の再会に戻す。この場面でも“令和基準の逃げ”がある。ドラマでは、ヤクザを悪の象徴のように描いているが、当時ヤクザは貧困から脱出した成功者であり、下層社会では憧れの存在でもあった。千代や一平はヤクザになった弟を憐れむように接するが、当時の世相なら、弟の出世を喜んでいたのではないか。
千代が道頓堀で奉公した頃、大阪の演劇界で大人気だったのは新国劇という劇団だった。後年、緒形拳などを輩出した名門の原動力となったのは 客が主人公のチャンバラ剣劇で、具体的には国定忠治などの三尺物である。新国劇の作った剣劇は全国でコピーされ、浅香光代を始め、あまたの役者・劇団を生んだ。その時代に生きた千代がヤクザを否定するはずがないのだ。
当時の空気を実感する資料がある。作家・村松友視の祖父で、作家の村松梢風が編集していた個人雑誌『騒人』だ。大正15年11月号では侠客奇談の特集が組まれた。記事には相撲番付表を模した『男達見立相撲評判』や『侠客人名辞典』などがあり、村松の人脈を生かして、文化人や作家60余名に「好きな侠客は?」「もし自分が侠客だったら?」などユニークな質問をぶつけたアンケートも実施している。