敬意はすり減る、上げると下がり、下げると上がる
──「させていただく」はいつごろから使われるようになったのでしょうか?
椎名:さかのぼると、明治維新の頃から、「敬意のインフレーション」が起きてきたようなんです。社会の身分制度が表向きはなくなったことで、相手がどういう立場の人なのか、わかりにくくなったんです。そこで、失礼のないようにと、敬語がたくさん使われるようになりました。敬語は、相手との距離や上下関係を調整する言葉だからです。19世紀後半には「させていただく」が誕生しています。「させて(許可)」に「いただく(恩恵)」が付いて、身分社会でなくなるにつれて、敬意が盛り盛りになっていくわけです。それが20世紀末くらいから使用が増加し、今、大ブレイクしているという感じです。
──「させていただく」と似た意味の敬語に、「いたします」(自分がへりくだる丁重語)がありますが、あまり使われなくなったと書かれています。なぜでしょうか?
椎名:背景には、どんな敬語でも、使われていくうちにどんどん敬意が減っていってしまうという「敬意漸減(ぜんげん)の法則」があります。みんなが使っているうちに聞きなれて、敬意がすり減っていくんです。「いたします」は、自分に焦点が当たって、だんだん自己が尊大化して、「偉そうに聞こえる」「上から目線的」という感じになり、使われなくなりました。「さしあげる」も恩着せがましい感じになってきて、使われなくなりましたね。
敬語は相手を上げたり自分を下げたりして、相対的な上下関係をつくる言葉ですが、使われているうちに、この相対的な「上・下」が変化していくんです。「お前」「貴様」という言葉は、漢字を見るとわかるように、もともとは相手を敬う意味だったのに、今は見下すときにしか使いませんよね。これは上にあげていたものが下がってきたということです。反対に「いたします」は、自分を下げていた言葉なのに、上がってきてしまった。こうやって言葉は変化していくわけです。面白いですよね。
──ということは、「させていだだく」も敬意が減っていって、いつか使われなくなるのでしょうか?
椎名:その兆候はすでに出ていると思いますよ。あるお役所の会議に出席したら、「させていただいてございます」と言っている人がいました。SNSを見ると「させていただきますね」と、共感の「ね」を付ける使い方が多いんです。「させていただきます」と言い切ると、一方的で冷たい感じ、あるいはぶっきらぼうで取り付く島がない感じがするのかもしれません。「させていただく」だけでは敬意が足りないとみんなが薄々感じているのでしょうね。ここまでくると、「敬意のインフレーション」を通り越して「敬意のナルシシズム」、ことによると「敬意のマスターベーション」とでもいったほうがいいくらいです。それだけ現代人は、自分が丁寧であることを示したいと思っているし、対人配慮に心を砕いているということだと思いますね。