その日、覚えているのは「自然治癒することもありますから、とにかく自宅で様子をみましょう」という医師の言葉だったという。
陽性とはいえ、発熱もなければ味覚の異変もない。「自然治癒」という医師の言葉にHさんは望みを託し、乗ってきた自転車で自宅に戻った。翌日も症状は変わらなかった。変わったのは、その翌日の5日のこと。体温が39℃に跳ね上がった。
「発熱したら、メディアで言っていた通りでしたね。空咳が出て、味覚がなくなり、熱が38℃から下がらない。怖いのは体感より実際の熱の方が高いこと。ちょっと熱っぽいから37℃くらいあるのかなと思って測ると、38.5℃とか」
6、7、8日と、様子を毎日聞いてくる保健所は、「ベッドに空きはありません」と言うばかり。Hさんの頭から「自然治癒」は消え、「このまま死ぬのかな」とそんなことばかり考えるようになったそう。
なのに、世の中は何事もなかったように松の内が明け、仕事始めになる。コロナ禍で動きが鈍いとはいえ、Hさんのスマホにも、昨年から取りかかっている仕事の問い合わせや、友人や家族から連絡が入る。
「それで気を紛らわせていました。コロナ陽性なんて誰にも言いません。言っても心配されるだけで、いいことなんて何ひとつないですからね」
缶詰やレトルト食品など食料品の備蓄はあったものの、それもとうとう尽きた。近所に住む若い仕事仲間に「インフルエンザで寝ているから」と言って、すぐ食べられる総菜やカップ麺の買い出しを頼んで、マンションの非常口の外に置いてもらった。入院先がようやく決まったのは9日のことだった。
「コロナ専用のワゴンカーに乗せられて、宇宙服を着ているようなドライバーの運転する車で病院に連れて行かれたときは、体温40℃。すぐに解熱剤をのんだら、みるみる熱が下がりました。正直、これで助かったと思いましたね」
レントゲンを撮ったら実は肺炎を起こしていて、かなり危なかったのだけど、「私自身はその感覚はないんです」とHさん。ほとんどなくなっていた味覚が4、5日たつと少しずつ戻ってきた。