桑田真澄氏(写真/AFLO)
井元にとって清原との出逢いも忘れられない。泉大津の公園で練習していた岸和田シニア(硬式)を視察した時のことだ。広い公園の外野に、清原はとてつもない当たりを連発していた。当時は引っ張り専門のプルヒッターの印象だった。
「学習院大学時代に、静岡県伊東市でキャンプを張っていた立教大の長嶋茂雄さんのバッティングを見たことがある。ミートしてから20mぐらいの打球の初速と角度に希有なホームラン打者の才能が詰まっていた。清原のバッティングを見て大学時代のチョーさんを思い出しました」
入学前の“秘密合宿”で…
今久留主成幸は、自身が小中学時代に在籍した摂津リトルシニアと、清原の岸和田リトルシニアが大阪府の覇を争うライバル関係にあったこともあり、小学生の時から清原とは対戦経験があった。
「関西では有名な選手で、体がとにかく大きかった。中学時代に神宮球場で対戦したこともあり、その時はセンターのフェンスを直撃する弾丸ライナーの二塁打を打たれたのが記憶にあります。清原君とは高校で一緒になるわけですが、その頃、関西で目立った選手はだいたいPLに入学しました」
1983年にPL学園の野球部に入部した31期生は27人(途中2人が退部して最終的には25人)。彼らが生まれた1967年は、丙午であることを忌避して出産を控える家庭が多かった前年の反動で、出生数が増加した。
寮のあるPLは、大阪府の私学連盟から「地方の子ども達を積極的に入学させてほしい」と依頼があり、野球部も地方出身者が多かった。ところが、この年は私学連盟から「生徒があふれることも考えられるため、大阪の子どもも入学させてほしい」と伝えられていた。そうしたいきさつがあり、大阪出身のKKも同時に入学。通常は一学年20人前後のPLにあって、27人が入部したのだ。
実は入学前の1月に、27人は鹿児島県の指宿に集められ、合宿が行なわれた。入学もしていない入部予定者だけでの合宿など当時も現在も許されていない。時代が黙認したのだろう。
今久留主は井元のこんな訓示から合宿がスタートしたことを覚えている。
「春夏連覇できるメンバーを揃えたので、まず顔合わせをしたかった」
中学時代に所属したリーグごとに選手が固まる中、少数派である準硬式の桑田は寡黙な印象で、輪の中に積極的に加わろうとはしなかった。しかし、キャッチボールの相手を捕手の今久留主が務め、距離が40mほどに伸びた頃、桑田から「座ってほしい」と依頼された。
「なんやこいつ偉そうに、って。そしたら地を這うようなボールがど真ん中に来た。ファーストインパクトにみんな驚いた」
PL学園から明治大、そして1989年のドラフトで大洋に入団した今久留主は西武を経て引退したのち、大洋でスカウトを務めた。その時、選手を見定める際の基準としたのが指宿合宿だったという。
「桑田君のランニング時の蹴り足の強さ、清原君や田口(権一。KKと共に1年夏よりベンチ入りした投手)君の姿勢の良さや野球への取り組み方。もちろん、PLでは入学後、いろいろあって背中が丸くなっていくんですが(笑)、大成する選手の姿勢を見定めるうえで、あの時の原体験が判断の基準となっています」