決して不倫をしたいわけではないけれど
実はこの話において雅樹の左手は一度たりとも登場しません。手をつなぐときもご飯を食べるときも君恵を抱くときも、雅樹の左手は常に隠されている。それは君恵が「見て見ぬふり」をしていたことの象徴であり、心のどこかで不倫を望んでいたと言えるでしょう。
決して不倫をしたいわけではない。だけど心のどこかで刺激を求めてしまう自分がいる。だからこそ雅樹の左手の指輪を見て見ぬふりをしていたのです。
しかし、彼女は彼のメモで彼にも家庭があることを思い出してしまう。そして彼女はここで初めて右手を使うのです。
普通なら逆でしょう。彼と会っているとき、彼に抱かれているときにこそ右手を使うべきなのです。しかし君恵は抱かれたからこそ、彼との思いに熱が入ってしまった。抱かれる前は火遊び程度だったのに、抱かれてしまったことで本気になってしまったのです。
世の中に不倫は絶えることがありませんが、きっと多くの不倫はこうして始まるものなのでしょう。軽い火遊びのつもりがいつの間にか大火になってしまう。雅樹が抱いた瞬間にメモ書きひとつでそそくさと帰ってしまうのとはあまりにも対照的で、そしてそれが今後君恵に降り注ぐであろう不幸を想起させています。
その後、ホテルを後にして電車に乗った君恵は窓に映る自分の“右手”を見て後悔をし始めるのですが、ここで右手を見てしまっているのもまた君恵の地獄を象徴していると言えるでしょう。雅樹に対しての思いを打ち消すのであれば、ここでこそ左手に輝く結婚指輪を見つめなければならなかった。しかし無意識に彼女は自分の右手を見てしまっているのです。
電車を降り、自宅に向かう君恵がまたよい。彼女が乗っていたのは終電車なのですが、自宅の最寄り駅に着いた君恵はわざわざ自宅に電話して「これから帰るけど、何か買ってきて欲しいものある?」なんてことを娘と旦那に聞くのです。そして2人に「いらない」と言われると、強引に「プチシュー」を買って帰ろうとしました。
普通なら同窓会を出るときに「これから帰るね」と言うものでしょう。迎えに来てもらうわけでもないのに、どうして最寄り駅に着いてから電話をしたのでしょうか? そんなの決まっています。彼女もまた「雅樹と何かあるかも」と心のどこかで願っていたからに他なりません。
それではどうして最寄り駅に着いたら電話をするのか。
「何か買ってきて欲しいものある?」という取ってつけたような言葉にあります。浮気をした男が彼女に妙に優しくなるのと構造は変わりません。娘と旦那に「いらない」と言われているのにプチシューを買ってくと言い出すのは、何かを買わなければ罪悪感で押し潰されてしまう君恵の心をよく表しているでしょう。