大阪桐蔭の西谷監督から教えを乞われて
当時のPLは、全国の中学生が憧れる超名門であり、あらゆる手を使って息子をPLに入学させようという強引な保護者もいた。
「ある時、OBを通じて宮崎の油津という場所に素晴らしい選手がいると情報が入ってきた。それでボクは、周囲に黙って視察に行ったんです。ところが練習を見ても、正直、PLで野球がやれるような実力ではなかった。どうも選手の母親が『PLから誘いが来ている』と周囲に吹聴していただけなんです」
1970年代後半から1980年代にかけてのPLの黄金期、井元が声をかけた球児は必ずPLの門を叩いた。高校野球に一時代を築いたPLの井元から声をかけられることは中学生にとって最大の誉れであり、甲子園への、そしてプロへの最短の道だった。それは1990年代に入ってからも続いた。大阪桐蔭の現監督である西谷浩一は、当時をこう振り返ったことがある。
「どうやったらPLを倒せるか。そればかり考えていました。最初は、良い選手さえ獲れれば差は縮まると思っていました。ところが、誘ってもなかなか入学してもらえない。PLに『A(クラス)』の選手が行くとしたら、うちにはやや劣る『B』の選手しか来ない。そんな状況でPLと同じことをやっていたら、一向に差は埋まりません……」
若き日の西谷から、井元は教えを乞われたことがあるという。
「『土下座でも何でもしますから、先生、どうしたら強くなれますか教えてください』『どうやったら欲しい選手を獲れますか』と言ってきましたね。ボクは一言だけ、『良いと思った選手がいたら、熱心にとにかく通うこと。これしかないよ』と伝えました」
しかし、ある時から潮目が変わった。そう井元は振り返る。
「1999年だったかな。奈良の郡山シニアに行くと、175センチのショートと、168センチぐらいのセカンドがいた。どちらもPLへの進学を希望していて、どちらも右投げ左打ちの良い選手だったけれども、ボクはショートの子だけを獲った。
その後、セカンドの子は大阪桐蔭に進みました。そして、PLのグラウンドで行われた春季大会で1年生から試合に出ていた彼に再会した。ちょうどお母さんもいらしていて、『先生、うちの息子は今でもPLに憧れています』と言われたことを覚えています。この選手が誰だか分かりますか?」
話の途中から察していた。その選手とは──千葉ロッテや阪神で活躍した西岡剛だ。
(文中敬称略)
【後編】につづく