KKコンビの才能をどう見極めたのか
昨年7月に話を聞いた時には現役続行の意向を明かしていた。その直後の急な心変わりは、昨夏に風間球打(2021年福岡ソフトバンク1位)を擁した明桜が甲子園に出場したことが関係しているかもしれない。風間は井元が勧誘した選手ではないものの、大エースを看板に明桜が甲子園出場を果たせたことで、「お役御免」を自覚したのかもしれない。
スカウトの仕事から離れたといっても、今も週末になると中学野球の現場に足を運ぶ井元がいる。
「それは完全に趣味ですね。甲子園を見るよりも、中学野球のほうが面白いんですよ。ボクがよく足を運ぶチームに素晴らしいキャッチャーがおる。彼の成長を見守るのが楽しみでね。大阪桐蔭の西谷(浩一)君が声をかけとるらしいです(笑)。その子の進路にタッチしようとは思っていません。もちろん、相談されたら、アドバイスはするだろうけど、彼はボクが何者かなんて知らんでしょう」
PL時代において、スカウティングで苦労した思い出はいくらでもある。とりわけ、「逆転のPL」が代名詞となった1978年夏の選手権大会の優勝投手である西田真二(元広島)を口説き落とすために、和歌山にある西田の実家にはギネス級に日参した。
「同級生の捕手・木戸克彦(元阪神)にも苦労しましたが、西田に関しては36回目の訪問でようやく決断してくれた。そうそうそう、3年時に甲子園には出場できませんでしたが、同じ和歌山出身の尾花高夫の時も大変でした。PLから社会人の新日本製鐵堺に進み、その後にヤクルトに入団した彼は(和歌山の)九度山出身だった。高野山に向かう途中の山の中に実家があり、1月の末頃に初めて訪ねた。すると私は道に迷ってしまって、草木を掴みながら山を上ってようやくたどり着いた。こんな山を毎日上り下りして学校に通っているんだから、相当、足腰は強いだろうと思った事を覚えております。後に、尾花をヤクルトにスカウトした片岡宏雄さん(2021年12月に逝去)もまったく同じことを話していましたね」
1983年夏から5季連続で甲子園に出場し、プロの世界で大投手、大打者となったKK(桑田真澄、清原和博)や、1987年に春夏連覇を達成した立浪和義や橋本清、片岡篤史、宮本慎也らも井元のお眼鏡に適った球児だった。KKに関してはもちろん、井元の中でも特別な選手だ。
「(桑田は)キャッチボールからボールが違った。フォームが美しく、ボールに伸びがあった。回転も素晴らしかった。ピッチャーというポジションは、フォームに癖があってガクガクした動きをしていたり、手投げになったりしてしまう投手はなかなか2年半という高校生活の間では修正ができない。ですから、ボクが選手を見極めるときに大事にしていたのは、まずキャッチボールがしっかりできることだった。
清原に関しては、初めて見た時は引っ張り専門で、とにかく飛距離が印象に残った。私は学習院大学で野球をしていた頃、長嶋茂雄さんのバッティングを近くから見たことがある。ミートしてから20メートルぐらいの打球の初速と角度に希有なホームラン打者の才能が詰まっていた。清原のバッティングを見て大学時代の長嶋さんを思い出しました。全国制覇をするようなチームは、その3年前の段階で優勝できると確信できるものです。木戸と西田の時や立浪の時がそうでしたし、KKの時は野球をまったく知らない人間が監督でも優勝できると思っていました」