「猪木さんですか、主人が……」
猪木と初めて会ったのは、敬子が力道山と交際を始めた時期、1962年の秋頃だったろうか。
箱根までゴルフに行く日の早朝、力道山の住む赤坂のリキ・アパートの前に、ゴルフバッグを車のトランクに運び入れる若者の姿があった。19歳のアントニオ猪木である。
力道山がマンションから出て来た。
「敬子、紹介する。アゴだ」
「あ、どうも」
「おはようございます」
「この頃は付き人は卒業していたはず」と敬子は記憶するが、それでも、力道山は何かにつけて「アゴ」と呼ぶこの青年に用事を言い付けた。
「アゴを呼べ」
「アゴ、ウチまで上がって来い」
猪木自身は「力道山には殴られたり蹴られたり散々な目に遭った」と述懐してきた。おそらく、そういうことは頻繁にあったのだろう。ただし、敬子はその場面を見たことがない。給仕係の「ボンちゃん」(田中米太郎)をぶん殴った場面は何度か目撃している。でも、猪木に手を上げている場面には、終ぞ遭遇しなかった。
むしろ、誰よりも可愛がっているように見えた。寵愛と言っていい。珍しいものが手に入ったらいつも「アゴを呼んでやれ。アゴにも食わせよう」と言った。すぐさま敬子は、アパートの敷地内に建つ選手の寮に電話を入れる。猪木本人が出るのはわかっていた。電話番だからである。
「猪木さんですか、主人が……」
敬子が用件を伝えようとすると、力道山は受話器をひったくって、決まってこう告げるのだ。
「誰にも見つかるな。こっそり上がって来い」
サイドビジネスに熱心だった力道山は、その打ち合わせを自宅でやることも珍しくなかった。銀行員、税理士、弁護士、会計士が自宅に集まる。そんなときもこう言う。
「アゴ、肩が凝った。揉みに来い」
青年に肩を揉ませながら、ビジネスの話を進めるのである。つまり「お前も一緒にこの話を聞いておけ」ということだ。こんな弟子はどこにもいない。だから、後年の猪木がやたらビジネスに手を出しても、敬子はさして不思議に思わなかった。不動産、輸入販売、店舗経営、学校経営……。すべて力道山の受け売りである。影響を受けないはずがないからだ。
猪木がいわゆる“ジジイ殺し”だったのは有名な話だろう。政治家、企業家、教育者、文化人、裏社会の大物に至るまで籠絡されたものだが、言うなれば、力道山こそその第一号だったのかもしれない。
ジャイアント馬場を指して「特別扱いだった」と言う人は多いが、敬子にはそうは見えなかった。馬場のことは“ヒット商品”として扱ったにすぎない。特別扱いは猪木の方なのだ。猪木こそ力道山の後継者だった。
その猪木が息を引き取って、静かに横たわっているのである。