実際、この先の一九一二年(明治45)、首相西園寺公望は上原勇作陸相の辞任で第二次西園寺内閣をつぶされることになる。ちなみに、この年は明治天皇が崩御(7月30日)して元号が大正になった年でもあるのだが、陸軍はさっそくこの「カード」を使い政党政治に挑戦したというわけだ。また、昭和になって昭和天皇に陸軍を抑えることを期待された宇垣一成も、大命降下を受けながら陸軍が陸相を出さなかったため、陸軍のOBであったにもかかわらず組閣を断念せざるを得なかった。
再三言うように、山県が政治家としては伊藤に一段も二段も劣るのはここのところだ。山県のやったことは結局、軍部の独走を招き大日本帝国を滅亡させてしまった。それは山県にとっても本意であったはずは無いのだが、彼自身の信念に基づいて日本のためによかれと信じてやったことが結局滅亡を招いたのだから、やはり政治家としては二流と言わざるを得ない。
しかしその山県ですら、ライバル伊藤の後継者である西園寺首相が主催した「満洲問題協議会」の席上、日露戦争勝利の立役者の児玉源太郎が提案した「満洲植民地化路線」には反対した。いや、正確に言えば「賛成しなかった」。それはやはり冒頭に紹介した「挽歌」が示すように、伊藤の主張をある程度認めていたからだろう。吉田松陰の松下村塾以来、五十年以上におよぶ「同志」だったのだ。
伊藤の慎重論には一理も二理もあると認めるところがあったのだろう。この協議会が開かれた直接のきっかけは、当時の在日イギリス大使そしてアメリカ大使が相次いで満洲の門戸開放を西園寺内閣に申し入れてきたことだった。「児玉計画」を採用すれば、英米との対立が深まることにもなる。そのあたりを山県は懸念していたのかもしれない。
前出の「明治激闘編」にも書いたところだが、他ならぬ児玉自身が明治維新「戦争」の経験者として、「後輩」の松川敏胤少将を諫めたことがあった。「自分は国が亡びるかもしれない修羅場で戦ってきた。そんな経験の無い貴公にはわからんことがある」ということで、あえて平たく言えば「一寸先は闇であり、慎重にいかねばならない」ということであったろう。
しかし、自分より若い世代にはそうした思いを持っていた児玉(1852年生まれ)も、伊藤(1841年生まれ)や山県(1838年生まれ)から見れば「若造」だ。この二人の眼から見れば、児玉は「少し危うい」と見えたのではないか。このあたりが歴史の面白さでもある。
結局、山県が賛成しなかったことが決め手となって、児玉がもくろんでいた「南満洲鉄道株式会社をイギリスの東インド会社の如くし、満洲の植民地化を進める」という計画は阻止された。伊藤・西園寺路線の勝利と言っていい。皮肉なことに、その後一九〇六年(明治39)、「東インド会社では無い南満洲鉄道(通称『満鉄』。以後こう呼称する)」つまり純然たる民間会社である満鉄の創立委員長に就任した児玉は、ほどなく就寝中に脳溢血で急死した。五十四歳の若さだった。日露戦争の激闘が彼の寿命を縮めたのかもしれない。だが「児玉計画」自体は陸軍のなかに生き続け、のちに満洲事変という形で大々的に復活することになる。最終的には西園寺の努力は無に帰した、というわけだ。