その結果、管野スガとの「共犯」で大逆罪を犯そうとしたと桂内閣に罪状をデッチ上げられ、死刑に処せられた。そういう意味では、大逆事件の遠因を作ったのも山県有朋なのである。第二次西園寺内閣も上原陸相の辞任、つまり陸軍の思惑によって崩壊させられた。西園寺が、陸軍が強硬に主張する二個師団増設に難色を示したからだ。
かくして、西園寺内閣は山県‐桂ラインおよび陸軍の「便利屋」にされてしまったわけだが、そうなった最大の原因はもうおわかりだろう。実際は「第二教育勅語」の「追加」、大日本帝国憲法の「改正」という形で日本を変えようとしていた西園寺は、その最大の後ろ盾である伊藤博文と明治天皇を相次いで失ってしまったからである。伊藤と天皇がもう少し長生きしていれば、西園寺は日本を変えられたかもしれない。しかし、そのチャンスは明治天皇の崩御とともに完全に潰えた。
この後、わりと早く死んでしまった桂太郎に代わって西園寺公望は昭和まで生き残り最後の元老となるのだが、唯一の元老というきわめて有利な立場を使っても、山県‐桂ラインが定めた陸軍および大日本帝国の方向性を変えることは不可能だったのである。
(「国際連盟への道3」編・完)
※週刊ポスト2023年2月24日号