前回紹介した九月五日付の記事と、この翌九月六日付記事の間に外務省の局長が殺されるというテロ事件が起こったのに、なんの影響も無かったのか?と思う読者がいるといけないので念のために言っておくが、いまと違って夕刊は無く、テレビもラジオも無いからニュースが速報されるということは戦争勃発ぐらいの大事件を報じる号外ぐらいしかあり得ない。
阿部が刺されたのは九月五日の夜になってからであり、即死では無かった。この時代にも通信社による速報というのはあったから、「阿部局長襲撃される」の一報は五日の夜に新聞社にもたらされただろうが、紙面に反映する時間は無かった。そして、この九月六日付の新聞記事はちょうど阿部が刺されたころに書かれていたか、すでに校了つまり紙面製作が終了して印刷に回されていた可能性が高い。
前回紹介した九月六日付の『東京朝日新聞』に載った犬養毅の「この機に乗じて支那に出兵するなど火事場泥棒のようなものだ」という見解も、阿部事件を知らずにコメントされたものだろう。だから、逆に双方の本音が現われているとも言える。要するに、山本内閣も外務省もそして政治的には対立点もあった犬養毅も平和裏に外交的に解決すべきだと主張していたのに、新聞だけが軍事的に解決せよ、つまり中国を侵略すべきだと扇動していたのである。
テロというものの影響は意外に大きい。なぜならば、被害者の賛同者に「次は自分の番か」と思わせる効果があるからだ。誰だって命は惜しいし、家族を守らねばならない。だから問題は、社会がこういうときにテロリストに対してどういう評価を下すかであろう。もうおわかりだろうが、日本人の多くはこのとき「よくぞ殺した」と思っていたのである。新聞がそのように世論を誘導したからである。
時系列的には逆になってしまったが、シーメンス事件も金剛ビッカース事件も、この後の話である。阿部が貫こうとしていた平和路線、それは前にも述べたように伊藤博文、西園寺公望を経て山本権兵衛に引き継がれたものなのだが、その山本内閣にあって南京事件を平和的に解決しようとしていた阿部は、はっきり言おう、『東京日日新聞』の扇動的な記事によって殺されてしまった。
もしそれが「悪」であると日本の大衆が認識したのなら、「阿部局長の遺志を継げ」という形で山本内閣への支持は強化され平和路線はさらに追求されたはずである。しかし、実際は逆だった。山本内閣は新聞によって四面楚歌の状態に追い込まれ、やむなく辞職せざるを得なかった。おわかりだろう。このテロは支持されたのであり、それは『東京日日新聞』がその方向へ日本の世論を誘導したからである。
では、ライバルである『東京朝日新聞』はどうだったか? 朝日も日比谷焼打事件で攻撃の対象にならなかったという点で実は「同じ穴のムジナ」なのだが、それでもこの時点では「犬養の火事場泥棒発言」を大きく取り扱うなど少しは良識があった。ところがこれ以降、大日本帝国自体が「『近事片々』路線」を取るようになると豹変し、山本内閣打倒運動にも与するようになった。
理由は簡単で、そのほうが新聞が売れライバルに負けなくなるからだ。日比谷焼打事件以後、日本の新聞社は良識よりも商売を重んじる組織になっている。だからこそ日比谷焼打事件の意義は大きいので、繰り返しになるがこれを「大正デモクラシーの出発点」などと捉えるのはとんでもない話で、司馬遼太郎が喝破した「向こう40年の魔の季節の始まり」と捉えるのが正しいのである。