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【長嶋茂雄】に関するニュースを集めたページです。

1980年の巨人投手陣を牽引した江川卓(左)と西本聖の両エース(時事通信フォト)
1980年代の巨人投手陣を牽引した江川卓と西本聖の凄さ
 緊急事態宣言の全国的な解除を受け、2020年のプロ野球の開幕が6月19日に決定した。2020年代のプロ野球の幕開けであり、令和になってから最初の開幕となる。 1950年の2リーグ分裂後、プロ野球界を引っ張ってきたのは読売ジャイアンツだった。年代別の優勝回数を見てみると、1950年代は8回、1960年代は7回、1970年代は6回、セ・リーグを制覇している。1955年から5連覇、1965年から9連覇を成し遂げ、巨人は「球界の盟主」と呼ばれてきた。 1965年にドラフト会議が始まり、各球団の戦力が徐々に均衡。長嶋茂雄が引退し、V9戦士に衰えも見え始めた1975年、巨人は球団初の最下位に転落した。1980年にはミスター・ジャイアンツの長嶋監督が退任し、世界のホームラン王である王貞治も引退。V9のイメージが色濃く残るプレッシャーの中、1980年代のチームを牽引したのは江川卓と西本聖の両投手だった。 1974年オフにドラフト外で松山商業から入団した西本は3年目の1977年に8勝4セーブを挙げ、頭角を現す。翌年オフ、江川卓が『空白の1日』を利用して巨人への入団を試みるが、ドラフト会議で阪神が1位指名。金子鋭コミッショナーの『強い要望』が出され、1979年1月31日に江川は小林繁との交換トレードで、阪神から巨人へ。開幕から約2か月の謹慎を経て6月2日にデビューして9勝を挙げる。 西本はこの年に初めて規定投球回数に達し、リーグ2位の防御率2.76をマーク。3位は2.80の江川だった。野球担当記者が述懐する。「オフに地獄の伊東キャンプが行なわれ、2人とも長嶋監督に鍛えられた。1980年からの8年間、江川と西本が交互に開幕投手を務めており、1980年代の巨人投手陣は2人を軸に回っていた」(以下同) 1980年から6年連続で江川と西本の2人が2ケタ勝利を挙げている(※江川は1987年まで8年連続)。1981年は江川20勝、西本18勝で、チームの73勝の半分以上である38勝を記録。この年、チームの投球回数の4割以上を2人で占め、巨人はV9の1973年以来、8年ぶりの日本一に輝いた。「ドラフト外の西本は、入団当初は同期で1位の定岡正二にライバル心を燃やした。先発の一角に食い込んで定岡を抜いたと認められた頃に、江川が入団した。西本はエリートコースを歩んできた投手に対して、反骨心をむき出しにして、自分を高めていくタイプの投手でした」 西本はシーズンでは江川の勝ち星を上回ることはできなかったが、日本シリーズでは1981年に2勝(2完投1完封)でMVP、1983年も2勝(2完投1完封)で敢闘賞を受賞。江川が開幕投手を務めた年は3位、2位、3位、2位に終わったが、西本が開幕投手を努めた年は優勝、優勝、3位、優勝という結果に。プロ野球ファンの間では、江川は勝負弱く、西本は勝負強いというイメージも出来上がった。 巨人が江川と西本を擁した1980年代、広島は“投手王国”と呼ばれ、北別府学、大野豊、川口和久、山根和夫などの好投手がいた。この10年間で、北別府は137勝を挙げており、両リーグを通じて勝ち星トップ(2位は江川と西本の126勝)。2ケタ勝利の回数は北別府9回、大野、川口5回、山根4回だった。ただし、チーム内の2人で30勝以上を挙げたのは1982年の北別府20勝、津田恒美11勝、1986年の北別府18勝、川口12勝(金石昭人も12勝)の2年に留まっている。「チーム内に確実に勝ち星を計算できる投手が2人以上、長年にわたって存在することはほとんどない。だが、江川と西本は1980年から5年連続で、2人で30勝以上を挙げている。しかも、1980年の西本の14勝を除いて、全て15勝以上。 当時はV9や昭和30年代の野球と比較されて、そこまで評価されなかった印象があります。1988年まで元号は昭和でしたし、まだまだ昔の野球のほうが凄かったという認識があり、先発は毎試合完投、シーズン20勝して初めてエースという風潮もあった。特に江川はアマチュア時代の実績や入団経緯もあったため、400勝投手の金田正一やシーズン42勝の記録を持つ稲尾和久などを引き合いに出され、損をしている面もあると思います」 現役選手で、昨シーズンまで連続2ケタ勝利を挙げているのは千賀滉大(ソフトバンク)の4年が最長。続いて、菅野智之(巨人)と大瀬良大地(広島)の3年になる。一昨年まで6年連続2ケタ勝利の則本昂大(楽天)も、昨年は5勝に留まった。「則本の6年連続のうち、15勝は2回です。現在メジャーで活躍している選手のNPB時代の連続2ケタ勝利を見ると、日本ハムのダルビッシュ有は6年(15勝以上4回)、楽天の田中将大は5年(15勝以上3回)、広島の前田健太は6年(15勝3回)、日本ハムの大谷翔平は3年(15勝1回)、西武の菊池雄星は3年(15勝以上1回)です。大谷と菊池を除いた3人はメジャーでも2ケタ勝っていますし、日本にいれば記録をもっと伸ばしたでしょう。こうして振り返ると、今のメジャー投手と同じくらい、江川と西本は凄かった。その2人が同じチームにいたことが奇跡でした」 エースが2人いたことで、1980年代の巨人は安定した強さを見せた。10年間で優勝4回はリーグ最多。全ての年でAクラスだった。2リーグ分裂後、巨人が1度もBクラスに落ちなかったのは1950年代と1980年代だけ。時代の狭間で、切磋琢磨した江川卓と西本聖はジャイアンツの歴史に名を残した。2020年代、巨人に2人のようなライバル関係で競り合う投手は出てくるか。
2020.05.28 19:40
江夏豊の球宴9連続奪三振 ベンチで展開された人間模様
江夏豊の球宴9連続奪三振 ベンチで展開された人間模様
 今年のプロ野球オールスターゲームは中止になったが、球宴が今も昔も心を揺さぶるのは、プロの凄みが凝縮されるようなシーンがしばしば生まれてきたからだ。その中でも「史上最高」と語り継がれるのが、1971年、江夏豊(阪神)による9者連続奪三振。芥川賞作家で熱狂的阪神ファンとして知られる高橋三千綱氏は、あの試合の衝撃を「はっきりと覚えている」という。「オールスターのシーズンが近づくと、どんな選手が選ばれるかワクワクして。そのなかでも、江夏豊(阪神)の9者連続奪三振は、誰が相手だったかまではっきり覚えています。江夏は“打てるものなら打ってみろ”とばかりにストレートを投げ込み、パ・リーグのバッターもミートに徹すれば不名誉な記録は避けられるのに、フルスイングで向かっていったのは立派でした。 9人目となった加藤(秀司・阪急)がファウルフライを打ち上げたとき、江夏は田淵(幸一・阪神)に『追うな!』と声をかけてたけど、こっちもテレビを見ながら“ファウルになれ”と叫んでいました」 江夏の記録は、文字通りの“オールスター”の顔ぶれの中で生まれたからこそ、価値がある。3番・王貞治、4番・長嶋茂雄のONの脇を田淵、ロバーツ(ヤクルト)らスラッガーが固めた。対するパも、江藤慎一(ロッテ)、土井正博(近鉄)、張本勲(東映)、野村克也(南海)、長池徳二(阪急)の超重量級打線だった。投手陣も圧巻の顔触れだ。セが江夏、堀内恒夫(巨人)、平松政次(大洋)、パは米田哲也(阪急)、村田兆治(ロッテ)、山田久志(阪急)……。 交流戦がなかった当時、日本シリーズ以外に、セ・パの代表選手が真剣勝負するのは、この機会しかない。WBCのように日本代表として組む機会もなかったため、ライバル球団の選手が同じベンチで談笑する姿すら貴重だった。いまやお祭りムードの印象が強いオールスターだが、当時は違う。市立和歌山商から阪神に入団して6年目の藤田平は、4回目の出場ながらピリピリした空気を感じていた。「セの監督は、あの年巨人をV7に導いた川上哲治さんですし、緊張感がありました。直接話なんてできませんよ。子供の頃からの憧れだった長嶋さんと三遊間を組んで、ショートゴロを捕れば一塁の王さんに送球する。それは感激でした」◆「幸司、前に来て勉強しろ」 ファン投票でパの投手トップになったのは、甲子園のアイドルからプロ入りして2年目の太田幸司(近鉄)。ルーキーイヤーも人気だけで選出されたが、この年も調子は上がらず0勝1敗の成績で、選出が決まった日にファーム落ちした。「ファン投票の中間発表で1位にいると、頼むから投票しないでくれ、と思ったものです。本番のベンチではボクらのようなペーペーは、隅っこのほうで小さくなって見ていましたが、張本さんから“幸司、前に来い。選ばれたのは恥ずかしいことじゃない。ファンの期待に応えるためにも、一番前で先輩たちのプレーを勉強しろ”と声をかけてもらって救われました」 その目の前で、江夏は伝説の快投を見せた。「パの強者たちが“俺が打ってくるわ”と勇ましく出て行くのに打てないんですから」(同前) 江夏はこの年、ここまで6勝9敗と振るわず、「こんな成績なのに選ばれるとは思わなかった。ファンの期待に応えるためには、大リーグにもない記録を作ってやる」と心に決めていたという。ベンチでその様子を見ていた木俣達彦(中日)が振り返る。「セのコーチには村山実さん(当時阪神の選手兼監督)もいたんですが、“あんな江夏は見たことないで。公式戦でもあれぐらい真剣に投げてくれたらええのに”とボヤいて、みんなを笑わせてました。けれど笑いはそこまで。当時は真剣勝負でしたから」 江夏の熱投は、リリーフした渡辺秀武、高橋一三(ともに巨人)ら4投手にも乗り移り、継投でのノーヒット・ノーランを達成した。 江夏は打者としても鮮烈な印象を残した。2回に回って来た2死一、二塁の打席で3球目を右翼席中段に叩きこんだ。打たれた米田は、前年までに286勝を挙げていた球界の大エース。試合前の始球式は、米田の長男が務めた。米田は半世紀が過ぎた今でも悔しそうに語る。「ああ、あの試合か。ボウズの前で江夏に3ランを打たれたことしか思い出さんわ。当時のパ・リーグは監督も選手も、みんな人気があって給料もよかったセ・リーグに負けたくないという気持ちで、ランナーに出ても相手とは話もせんかったもんや。なにせ、(ドル箱の)巨人とオープン戦を組んでもらうのに四苦八苦してた時代やからねえ」※週刊ポスト2020年6月5日号
2020.05.28 11:47
自身が高校球児時代に味わった“地獄”を語った江本さん(時事通信フォト)
江本孟紀氏 社会には理不尽なことあると高校野球に教わった
 その発表は、彼らにとってあまりにも残酷なものだった。新型コロナウイルスの影響で、夏の全国高校野球選手権大会と地方大会の中止が決定した。 発表を受け、全国の高校から聞こえてくるのは、高校3年生の悲痛の声。なかには、人目もはばからずむせび泣く生徒もいたほどだ。 落胆と激励の声は球児以外からも聞こえる。ダウンタウンの松本人志(56才)は、「小学生くらいのときからずっと甲子園に出ることが夢でやってきた子にしたら『ちょっと待ってくれ』となる。なんとかできないか。甲子園の砂を贈ってあげるとか」と発言。元高校球児の小泉進次郎環境大臣(39才)も、「言葉もない。球児の思いを燃焼できる場を作れないか」と、彼らを慮った。 こうした声を受け、各地の高校野球連盟(高野連)は、代替大会を検討しているようだが、未定な部分が多い。かつての高校球児は、この事態をどのように感じているのだろうか──。◆高校野球は理不尽ばかり 私が味わった地獄を語ろう「エモやん」の愛称で知られる江本孟紀さん(72才)は、阪神タイガースのエースを務め、現役引退後は国会議員にまでなった。しかし、高校3年時は苦難の連続だった。 江本さんの高知商業は、春のセンバツ大会に出場が決定していた。ところが、直前にチームメートの暴力行為が発覚し、出場辞退に追い込まれる憂き目に遭っている。「加えて4月1日から1年間の対外試合禁止処分が下されて、野球部は解散。当然、夏の地方大会にも出場できません。優勝候補ということでたくさんの寄付金も集まっていた。そんななかでの出場辞退。まさに地獄。あのときは、今後の人生、ひがみと妬みだけで生きていこうと思ったくらいです(笑い)」 しばらくは放心状態で、野球をやりたいとは思わなかったという江本さん。次の目標に向け気持ちを切り替えることができたのは、長嶋茂雄氏の存在が大きかったという。「当時、巨人で活躍していた長嶋さんの母校、立教大学に進もうと考えたんです。そこで立教大学のセレクションを受けた。でも、『合格間違いなし』といわれていたのに、学力が足りないという理由で12月に不合格になってしまったんです」 1年に2度も試練に見舞われた江本さんだったが、捨てる神あれば拾う神あり。法政大学のセレクションに合格し、東京六大学野球リーグで大活躍。卒業後は社会人チームを経てプロ入りして3つのチームを渡り歩き、プロ通算113勝を挙げている。「世の中には目的地にたどり着くまでにいろいろな道がある。いつまでも下を向いていないで、『人生何が起きても怖くない』という気持ちに切り替えてほしい。私の経験から言えば、明確な目標さえ持っていれば、大学、社会人と野球を続けることはできます。続けていると、プロで113勝できたりもするわけです」 そう激励しつつ、「球児たちの“はけ口”を作ってやることが必要」だと語る。「感染防止の観点から考えると、宿泊せず自宅や寮から日帰りできる都道府県単位で大会をやるのが現実的。全国規模でなくても、ずっと練習をしてきた仲間と力を合わせて対外試合をやったという事実が重要なんです」 江本さんは、「社会には不運や理不尽なことがいくらでもあるのだと、高校野球に教えてもらった」と笑った。※女性セブン2020年6月11日号
2020.05.28 07:48
プロ野球監督、「評論家から」「コーチから」どちらが有利か
プロ野球監督、「評論家から」「コーチから」どちらが有利か
 新型コロナウイルスの影響で、開幕時期すら危ぶまれている状況だが、今年のプロ野球界には、広島・佐々岡真司氏、ヤクルト・高津臣吾氏、楽天・三木肇氏という3人の新監督が誕生している。いずれも数年間に及ぶコーチ生活を経て、指揮官に昇格した。野球担当記者が話す。「今季、12球団の監督の中でコーチ経験がないのは栗山英樹氏(日本ハム)、工藤公康氏(ソフトバンク)、井口資仁氏(ロッテ)の3人。アレックス・ラミレス氏(DeNA)は2014年に独立リーグの群馬ダイヤモンドペガサスで選手兼任コーチ、翌年にはオリックス巡回アドバイザーをしていました。NPBでの1年間専任コーチを務めていないという点では4人です」(以下同) 逆に言えば、12球団の中で、ラミレス監督を含めて4分の3は指導者を経験してから、監督になっている。かつては長嶋茂雄氏(巨人)や有藤通世氏(ロッテ)のように現役引退後即監督になる場合もあれば、金田正一氏(ロッテ)や鈴木啓示氏(近鉄)、田淵幸一氏(ダイエー)のように引退後、解説者として活動し、コーチ経験なしで監督に就任する人物も多数いた。「昭和や平成の初期までは、指導者としての実力を評価するよりも現役時代の実績や知名度、人気を優先させる傾向が強かった。もちろん、西本幸雄氏(阪急、近鉄)や上田利治氏(阪急、日本ハム)のように、現役時代はスター選手と呼ばれる存在ではなかったが、長年のコーチ生活を経て常勝監督になった人もいますが、そうした監督は少数派でした。一時期、コーチ経験なしで失敗する監督が目立ったこともあり、徐々に変わっていったのでしょう」 現在は少なくなっているが、必ずしもコーチを経験しなければ監督として大成しないわけではない。「ノムさん(野村克也氏)は現役引退後、解説者時代にむさぼるように読書をして言葉を覚え、講演会や解説で話術を磨いた。それが、ヤクルトの監督になった時に生き、1990年代に黄金時代を築けたと語っています。王(貞治)さんは引退後、助監督を3年間務めて巨人の監督になりましたが、5年間でリーグ優勝1回と期待されたほどの成績は残せなかった。のちに、権限のない助監督という中途半端な立場はあまり経験にならず、外から野球を勉強したかったと話しています。解説者生活が勉強になる面は十分あるでしょう」◆コーチを経験しなかった工藤監督、栗山監督ら 一方で、張本勲氏や江川卓氏のように現役引退後、解説者を何十年も続け、一度もユニフォームに袖を通していない大物OBもいる。「著名になればなるほど、コーチ業よりも評論業ほうが儲かる。今は1試合あたりの解説のギャラも減っていますが、それでも講演などもありますし、コーチよりは羽振りはいいはず。監督のオファーなら乗るのでしょうけど、2人とも機を逸した気がしますね。江川さんは長嶋茂雄監督の時に投手コーチとして名前が上がり、第2次原辰徳政権の時にヘッドコーチの噂もありましたが、実現しなかった。本人もコーチではなく、監督として勝負したいと語っていました。今年65歳になりますが、日本の平均寿命も延びていますし、完全に監督の可能性が断たれたわけでもないでしょう。一度、江川監督を見たいファンも根強く残っています」 1988年の引退後、解説者生活を送っていた“ミスター・タイガース”掛布雅之氏は、26年経った2014年から阪神のゼネラルマネージャー付育成&打撃コーディネーター(DC)となり、2016年から2年間は二軍監督を務めた。しかし、一軍監督就任は実現せず。現在は『阪神レジェンドテラー』という肩書きで球団に残っているが、縦縞のユニフォームには袖を通していない。「同じ時代に活躍した岡田彰布さんが引退後、オリックスや阪神の2軍監督やコーチを務め、一度も現場から離れずに阪神の監督になったのとは対照的です。岡田さんは評論家をするよりも、現場にいたほうが指導者として勉強になるという持論です。コーチとして指導者経験を積む、評論家として外から野球を見るという2つの選択は、どちらが正しいかではなく、どちらが自分に合っているかなんでしょう。考え方や取り組み方の問題だと思います。ただ、最近の傾向を見れば、なるべく現場からは離れず、コーチのオファーがきたら素直に受け入れたほうが、いずれ監督になれる可能性は高そうですね」 ケースは減っているものの、コーチを経験せずに、解説者から監督になって結果を残している人物も多数いる。「現在のソフトバンク工藤監督や日本ハム栗山監督は、そのパターンで日本一になっています。星野仙一さんも選手兼任コーチはありましたが、専任では務めていない。しかし、指揮官2年目に優勝をして中日、阪神、楽天の3球団をリーグ制覇に導いた。東尾修さんもコーチ経験はないですが、西武で1997年からパ・リーグ連覇を果たしている。落合博満さんもコーチをせずに監督になりましたが、2000年代に中日の黄金時代を築いています」 引退後、一度もユニフォームを着ていない大物OBが監督を務める姿を見たいファンもいる。現在の12球団監督の結果次第で、時代の流れが再び変わることもありそうだ。
2020.05.06 16:40
京都・祇園末友『冷凍京うどん』
外出自粛の今だから食べたい麺類! 有名人おすすめお取り寄せ
 外出自粛生活が続くと、毎日3度の食事の支度もたいへんにいなってくる。そこで、外出ができない今だからこそ食べたいお取り寄せグルメを、有名人や専門家に紹介してもらう。ここでは「麺類」をピックアップする。◆京都・祇園末友『冷凍京うどん』【紹介してくれたのは…】・京都観光おもてなし大使・中野弘子さん/京都の人気雑誌編集長を経て『よそさんが心地いい京都』などを上梓。富裕層雑誌『ACT4』関西代表。「京都でいち早くお取り寄せを展開し、なかでもこの冷凍うどんは丸ごとお鍋に入れて加熱するだけで、やさしいおだしの京の味がいただけます」(中野さん)。きざみきつね、牛とごぼう、豚と玉ねぎ、カレーの全4種。各600円。住所:京都府京都市東山区大和大路四条下ル4丁目小松町151-73◆新潟・小嶋屋総本店『生へぎそば』【紹介してくれたのは…】・タイムマシーン3号・山本浩司/タイムマシーン3号のツッコミ担当。特技に人間ポンプや嗅覚で食材を当てることなど特殊な才能の持ち主。「数ある新潟の専門店の中でも通常のそばとは違い、つなぎに小麦粉ではなく伝承の布乃利(海藻)を使用し、ツルツルとした食感のコシのあるそば。皇室に献上されるほどのおそばが家でも食べられるなんて幸せ♪」(山本さん)。2人前(めんつゆ付)1400円ほか住所:新潟県十日町市中屋敷 758-1◆滋賀・サカエヤ『ホルそば』【紹介してくれたのは…】・フードアクティビスト・松浦達也さん/食をテーマに広く執筆。著書に『大人の肉ドリル』など。『東京最高のレストラン』審査員。「臭みのないピカピカのホルモン、この商品のために探し出されたコシと弾力と小麦の香りが満点の太麺、しょうゆベースのピリ辛だれの相性は抜群。いやもうビールがどんどん進む!」(松浦さん)。4食入り(ホルモン、麺、タレ)1980円住所:滋賀県草津市追分南5-11-13◆宮崎・そばや哲心『哲心の釜揚げうどん』【編集部おすすめ】 宮崎で昔から県内外の人に絶大に支持され、長嶋茂雄ら著名人も足繁く通うそばの名店が休業中の今回、「そばは日持ちがしないけど、うどんなら!」と始めた。温かい湯気に小麦本来のいい香りがたちのぼり絶品。1箱(2人前/うどん、だし、特製割り箸付)1500円住所:宮崎県宮崎市橘通東3-4-9 注文は『哲心二代目蕎麦侍のブログ』から。■撮影/宮本信義※女性セブン2020年5月7・14日号
2020.04.24 22:43
市毛良枝、東ちづる他 「お嫁さんにしたい」女優列伝
市毛良枝、東ちづる他 「お嫁さんにしたい」女優列伝
 時代が移り変わるたびに、その時代に合った「お嫁さんにしたい」女優が現れ、世の男性たちに愛されてきた。そんな女優と、エピソードを紹介する。◆市毛良枝 フジテレビの昼ドラ『小さくとも命の花は』などの“嫁姑シリーズ”で、姑との関係に悩みながらも芯の強い新妻を演じ、1980年前後に「お嫁さんにしたい女優」と呼ばれるようになった。局には「ウチの息子の嫁になってほしい」と姑からの声が多数寄せられた。 男性人気も高く、1980年にはファンレターが1日約100通も届き、その大半が男子学生。マラソン界のスターだった瀬古利彦も「嫁さんにするなら市毛さんのような人」と語っていた。当時の雑誌で本人が「“この女なら、おとなしく黙ってついてきてくれそうだ“なんて思われているみたい」と語っている。 実生活では、38歳の時に弁護士でのちに法務大臣を務める小川敏夫氏と結婚。35歳を過ぎて4~5度目のお見合いでまとまった縁談だった。◆東ちづる 短大卒業後、ソニーで会社員として働き、24歳で芸能界へ。1987年、平日昼放送の『金子信雄の楽しい夕食』(朝日放送制作、テレビ朝日系)のアシスタントに抜擢され、人気が急上昇した。 頑固な金子に対し、「お酒を飲み過ぎないように」「テレビなんだから、そんなに(料理に)こだわらなくても」などと本音をぶつける姿が評判を呼び、関西の女性誌アンケートでは『お嫁さんにしたい女性No.1』に選ばれた。事実、東は「息子の嫁に、という話が多いんです」と当時話していた。 1988年頃から東京に進出すると、「お嫁さん」イメージの効果か、1989年にはシステムキッチンのCMに起用され、『クイズ ヒントでピント』(テレビ朝日系)など6本のレギュラーを抱える売れっ子に。2003年、2歳年下の飲食店経営者と8年の交際を経て結婚した。◆水野真紀「きれいなお姉さんは好きですか」をキャッチコピーにした家電CMで脚光を浴び、1994年にドラマ『29歳のクリスマス』(フジテレビ系)で結婚願望の強いOLを演じたこともあり、1990年代に「お嫁さんにしたい女優」として人気を集めた。「私は女優じゃなくて、東宝芸能の女優課に配属されたOLという意識」と話し、高校の卒業アルバムで「10年後の私」の欄に「主婦」と書くなど普通の感覚も持ち合わせた。趣味のお菓子作りを極めるためロンドンの専門学校に留学し、レシピ本を出版。家庭的な女性を好む男性の理想だった。 1999年、巨人対阪神の開幕戦では結婚行進曲のメロディーに乗りながら、純白のウエディングドレス姿、純白のグローブで始球式を行ない、長嶋茂雄監督を喜ばせたことも。2004年、衆議院議員の後藤田正純氏と結婚。陰で夫を支えている。◆三井ゆり Jリーグ開幕の翌年である1994年、『スーパーサッカー』(TBS系)のキャスターに就任すると、ほのぼのとした笑顔で、瞬く間に男性の心を掴んだ。 当時、女性保持者0.7%に過ぎなかった日本サッカー協会認定3級審判の資格を取得し、自動車レースのA級ライセンスも持つなど、チャレンジ精神旺盛で頑張り屋な一面も人気を支えた。アクティブな魅力はバラエティ番組でも発揮され、『志村けんのバカ殿様』(フジテレビ系)で池に落ちて笑いを取ったこともあった。 スポーツ紙のインタビューで、「どんな家庭を築きたいか?」と聞かれ、「ちゃんとご飯を作って、エプロンというよりかっぽう着の方がいいかな。だんなさんの帰りをきちっと待ちます」とイメージ通りの答えをしたことも。2001年に12歳年上の野口五郎と結婚。2人の子供を授かった。※週刊ポスト2020年4月24日号
2020.04.17 07:42
大洋のエースとして大車輪の働きをした遠藤一彦(左は加藤俊夫。時事通信フォト)
大洋・関根潤三監督が“心中”した「1984年の遠藤一彦」
 ソフトな語り口で人気のあった野球解説者の関根潤三さんが4月9日、老衰のため逝去した。93歳だった。近鉄の創成期に投手、打者としてプレーした関根さんは1982年から大洋と1987年からヤクルトの監督を各3年務めた。両球団は1980年限りで巨人監督の座を追われた長嶋茂雄氏を迎え入れようとしたが、固辞された。そのため、長嶋氏と懇意にしていた関根さんを監督に据え、下地を作ろうとしていた。野球担当記者が話す。「若手の育成が上手かった。大洋時代は2年目の高木豊を見出し、徹底的に鍛えて3割打者にした。高木は、関根監督最終年には盗塁王に輝いています。それまで先発かリリーフか固定されていなかった遠藤一彦の1本立ちにも成功した。遠藤は関根監督2年目には巨人の江川卓や西本聖を抑えて、単独で最多勝を獲得し、沢村賞も受賞した。翌1984年は17勝17敗で2年連続最多勝になっています。セ・リーグで勝利と敗戦の数が同じ最多勝投手は、この年の遠藤だけです」(以下同) 1984年、大洋は前年の3位から最下位に沈んだ。打線は打率、本塁打、打点の3部門でリーグ最低に終わり、チャンスに打てないシーンが目立った。「特に遠藤が投げる試合では、からきし打てませんでした。この年、遠藤は37試合に先発しました。そのうち、1試合の援護点3以下が19試合と過半数を超えていた。防御率は3.68でしたから、17勝17敗という数字も納得できます」 この年、遠藤は完投18、投球回276.2もリーグ最多だった。昨年、セ・リーグの最多完投は大瀬良大地(広島)の6、最多投球回数は大野雄大(中日)の177回3分の2であり、隔世の感がある。投手の分業制が確立されている現代と比べれば差が出るのは当然としても、1984年の各球団のエースと比べても突出している。広島・北別府学203.2回、山根和夫222回、中日・小松辰雄186回、郭源治216回、巨人・江川卓186回、西本聖224.2回と遠藤には遠く及ばない。「リリーフの1試合を含め、38試合で34回も責任投手になっている。いかに関根監督が遠藤と“心中”したかわかる数字です。5月27日の阪神戦では2回持たず7失点でKOされましたが、中2日で後楽園の巨人戦に先発し、3安打完封したこともあった」 9月中旬の時点で、遠藤は11勝16敗。そこから1か月で6勝(1敗)を挙げ、この年優勝した広島の山根和男の16勝を抜いて、単独最多勝になっている。「試合間隔の空いた10月は9試合中、4試合で遠藤が勝利投手に。10月5日には、1点勝ち越した直後の7回から3イニングを投げさせ、勝ち星を付けさせました。関根監督はなんとしても遠藤にタイトルを取らせたかったのでしょう」 遠藤は関根監督就任の1982年から6年連続13勝以上を挙げ、大洋ホエールズ最終年の1992年限りで引退。通算134勝は、球団史上4位の記録だ。自身の努力に加え、一度見込んだら最後まで信じ抜いた関根監督がいたからこそ、遠藤は歴史に名を刻めたのだろう。
2020.04.13 13:42
金田、ダル、木田勇、原辰徳他 1年目からスゴかった10人
金田、ダル、木田勇、原辰徳他 1年目からスゴかった10人
 長嶋茂雄や松坂大輔の鮮烈なデビューが印象に残っている人も多いかもしれないが、球史を紐解けば、1年目から大活躍した選手は少なくない。ここでは10人のスター選手たちのルーキーイヤーの卓越した成績を紹介しよう。35勝や22勝を挙げた選手までいるのだ。◆金田正一(1950年プロ入り) 1年目成績 登板試合:30 勝利:8 敗北:12 防御率:3.94 奪三振:143 高校を中退してシーズン途中で国鉄に入団。8月23日に初登板し、2か月足らずで8勝を挙げた。実質的な1年目となった翌年は、全107試合中44試合に先発し、22勝21敗の成績を残した。9月5日の大阪タイガース戦では史上最年少でノーヒットノーランを達成した。◆ダルビッシュ有(2005年プロ入り) 1年目成績 登板試合:14 勝利:5 敗北:5 防御率:3.53 奪三振:52 東北高時代、春夏4回出場(通算7勝2敗)。ドラフト1位で日本ハム入団。自主トレで膝を痛めて二軍スタートだったが、キャンプ中にパチンコ店での喫煙を写真週刊誌に報じられ無期限の謹慎となった。6月に昇格し、初先発で初勝利。ローテーション入りして5勝。◆尾崎行雄(1962年プロ入り) 1年目成績 登板試合:49 勝利:20 敗北:9 防御率:2.42 奪三振:196 浪商2年時に夏の甲子園で優勝投手となり、秋季大会に優勝してセンバツ出場権を置き土産に中退。尾崎家に各球団のスカウトが訪れる争奪戦の末、17歳で東映に入団した。17歳10か月のオールスター出場、18歳での新人王は今も破られていない最年少記録となっている。◆木田勇(1980年プロ入り) 1年目成績 登板試合:40 勝利:22 敗北:8 防御率:2.28 奪三振:225 1978年のドラフトで広島の1位指名を拒否し、翌年に日本ハムに入団。大小2種類のカーブとパームボールで三振の山を築いた。1試合16奪三振は野茂英雄に破られるまでルーキーの最多記録で、1シーズン毎回奪三振3回は史上唯一の新人記録となっている。◆原辰徳(1981年プロ入り) 1年目成績 出場試合:125 安打:126 打率:.268 本塁打:22 打点:67 1年目から4番候補として大切に育てられた。例えば巨人寮では池の葉っぱの掃除係を担当したが、これは歴代のエリート選手の中でも最も負担が軽い仕事だった。1年目から「美味しさホームラン」のセリフで明治プリンのCMに出演するなど人気もピカイチ。22本塁打で新人王を獲得した。◆近本光司(2019年プロ入り) 1年目成績 出場試合:142 安打:159 打率:.271 本塁打:9 打点:42 盗塁:36 関学大から大阪ガスを経て阪神に入団。開幕戦で2番センターで出場し、初安打初打点を記録。1年目は36盗塁を記録し、史上2人目となるルーキーでの盗塁王を獲得。61年ぶりにセ・リーグの新人記録を更新する159安打、オールスターでのサイクル安打達成。◆権藤博(1961年プロ入り) 1年目成績 出場試合:69 勝利:35 敗北19 防御率:1.70 奪三振:310 鳥栖高から社会人を経て中日に。伸び上がるようなフォームからの快速球で勝ち星を重ねた。35勝の新人最多勝記録で新人王を獲得。69試合に登板し、429回3分の1を投げた。8月にダブルヘッダーで1日に2勝したかと思えば、9月には2敗の珍記録も残している。◆稲尾和久(1956年プロ入り) 1年目成績:登板試合:61 勝利:21 敗北:6 防御率:1.06 奪三振:182 高校時代は無名。契約金は50万円(同期の畑隆幸は800万円)。キャンプで打撃投手を務め、コントロール抜群のスライダーが三原脩監督の目に止まった。21勝を挙げて新人王に。日本シリーズでは先発や中継ぎとして全6試合に登板。巨人相手に3勝を挙げた。◆杉浦忠(1958年プロ入り) 1年目成績: 登板試合:53 勝利:27 敗北:12 防御率:2.05 奪三振:215 立大のエースとして長嶋茂雄らと黄金時代を築いた。大学の先輩・大沢啓二に誘われ2人揃っての南海入団予定が、長嶋が翻意。「シゲ(長嶋)は遠慮せず巨人へ行け」と送り出し、杉浦は約束通り南海に入団した。開幕戦で初登板初勝利を飾ると27勝で新人王を獲得。◆中西太(1952年プロ入り) 1年目成績 出場試合:111 安打:108 打率.281 本塁打:12 打点:65 高松一高で甲子園に3度出場。すさまじいスイングスピードから繰り出される弾丸ライナーが持ち味の豪快な打撃で“怪童”と呼ばれた。西鉄に入団するとキャンプ初日の紅白戦で第一打席をバックスクリーンに叩き込んだ。シーズンが始まると12本塁打を放ち新人王を獲得。※週刊ポスト2020年4月10日号
2020.04.03 07:39
堀内恒夫は1966年にプロ入りした(時事通信フォト)
野茂、堀内、松井、大谷ら 新人時代から大活躍した名選手達
 プロ野球界にはルーキーイヤーから大活躍する選手たちがいる。ここでは野茂英雄、堀内恒夫、松井秀喜ら、7人の選手たちのデビュー当時を振り返ってみよう。◆堀内恒夫(1966年プロ入り) 1年目成績 登板試合:33 勝利:16 敗北:2 防御率:1.39 奪三振:117 開幕3戦目に高卒ルーキーとして初先発。これを初勝利で飾ると7月までに13連勝し、1年目は16勝2敗で終えた。最優秀防御率と最高勝率に輝き、新人王と沢村賞にも選ばれた。44イニング連続無失点は今も塗り替えられていない新人記録となっている。2年目以降もコンスタントに勝ち星を挙げ、巨人V9のエースとして活躍。13年連続2ケタ勝利をマークした。 ふてぶてしいまでのマウンド度胸からついた異名は“甲斐の小天狗”“悪太郎”。入団に際しての取材では、時間や場所を変えて1社ずつ同じような質問をされるのが面倒臭くなり、「誰かが代表して聞いてくれませんか」と言い放った。門限破りの常連で、鬼軍曹と呼ばれた武宮敏明寮長から叱られた時に「憲法で決まっているわけではない」と反論した逸話もある。◆松井秀喜(1993年プロ入り) 1年目成績 出場試合:57 安打:41 打率.223 本塁打:11 打点:27 12年ぶりに長嶋茂雄監督が巨人へ復帰したシーズンに華を添えたのが、甲子園での5打席連続敬遠が社会現象になったゴールデンルーキー・松井秀喜だった。4球団競合による抽選で引き当てた松井の背番号55は、王貞治の最多本塁打記録(当時)にちなんだ数字。長嶋監督の松井へのホームランバッターとしての期待の大きさがうかがえる。 キャンプでは場外弾を連発したが、オープン戦では不調(打率.094、20三振)だったため開幕は二軍で迎えた。5月に7番レフトで一軍デビューを果たし、2試合目に高津臣吾から初本塁打を放っている。 6月には二軍に降格したが、フレッシュオールスターでMVPを獲得し、8月に一軍へ再昇格するとヒットを連発し、3番に定着。ルーキーイヤーは11本塁打を放ち、セ・リーグ高卒ルーキーの本塁打記録を更新し、翌年からレギュラーに定着した。◆大谷翔平(2013年プロ入り) 1年目成績【投手】登板試合:13 勝利:3 敗北:0 防御率:4.23 奪三振:46【打者】出場試合:77 安打:45 打率:.238 本塁打:3 打点:20 花巻東高時代、地方大会でアマ野球史上最速の160キロを記録し、日米から注目された。大谷はメジャー挑戦を表明したが、日本ハムが投手と野手の二刀流育成プランを提示し、ドラフト1位で獲得。46年ぶりに高卒新人でプロ初勝利と初本塁打を記録した。◆野茂英雄(1990年プロ入り) 1年目成績 登板試合:29 勝利:18 敗北:8 防御率:2.91 奪三振:287 史上初の8球団競合の末、近鉄に入団。プロ初勝利を17奪三振の日本タイ記録(当時)で飾ると、5試合連続2ケタ奪三振を記録。ルーキーイヤーは最多勝、最優秀防御率、最多奪三振、最高勝率の投手4冠のほか、新人王、ベストナイン、MVP、沢村賞を受賞。◆田中将大(2007年プロ入り) 1年目成績 登板試合:28 勝利:11 敗北:7 防御率3.82 奪三振:196 夏の甲子園決勝で早実高の斎藤佑樹(現日本ハム)と投げ合い、ドラフトでは4球団が競合、楽天に入団。高卒1年目では歴代4位の196奪三振でシーズンを終え、186イニング1/3を投げて11勝。1999年の松坂大輔以来、8年ぶりに高卒1年目の新人王が誕生した。◆上原浩治(1999年プロ入り) 1年目成績 登板試合:25 勝利:20 敗北:4 防御率:2.09 奪三振:179 ドラフトでは松坂と話題を二分。巨人が逆指名を勝ち取った。初登板は黒星だったが、歴代4位タイの15連勝を記録し、33年ぶりに堀内が持つ新人連勝記録(13連勝)を更新。木田勇以来となるルーキー20勝をマークし、新人王と沢村賞をダブル受賞した。◆立浪和義(1988年プロ入り) 1年目成績 出場試合:110 安打:75 打率.223 本塁打:4 打点:18 PL学園の主将として甲子園で春夏連覇(1987年)を達成し、ドラフトでは南海と競合した中日が獲得。開幕で一軍メンバーに名を連ねると、2番ショートで先発出場。新人王に選ばれ、高卒ルーキーとしては史上初となるゴールデングラブ賞を受賞した。※週刊ポスト2020年4月10日号
2020.04.01 07:39
金田正一からキツいプロの洗礼(共同通信社)
長嶋茂雄、清原和博、松坂大輔 いかにすごい新人だったか
 プロ野球界では、1年目から華々しくグラウンドで活躍したヒーローたちがいる。なかでもデビュー時の衝撃が大きかったのが、長嶋茂雄、清原和博、松坂大輔の3人だろう。彼らの何がすごかったのか、データとともに振り返る。◆長嶋茂雄(1958年プロ入り) 1年目成績 出場試合:130 安打:153 打率:.305 本塁打:29 打点:92 ゴールデンルーキー・長嶋茂雄と国鉄スワローズの大エース・金田正一が対戦した1958年の巨人対国鉄戦はプロ野球史上、最も注目された開幕戦といわれる。通算8本塁打の東京六大学記録を引っさげて鳴り物入りで巨人入りし、オープン戦でも7本塁打と大暴れの長嶋に対し、すでに通算182勝を挙げていた金田。その対決に、後楽園球場は異様な熱気に包まれた。結果は4打席4三振。長嶋は1球もバットに当てることができなかった。 しかし、翌日から長嶋のバットは火を噴いた。新人ながら本塁打王(29本)と打点王(92打点)を獲得。新人で本塁打王はいるが、打点王は長嶋だけ。1年目から「チャンスに強い打者」を印象づけた。 打率.305はリーグ2位。盗塁は37を記録した。一塁ベースを踏み忘れた幻の1本を加えれば、3割、30本塁打、30盗塁で巨人唯一のトリプルスリー達成となっていた。 開幕戦で3番に起用された長嶋は、8月から打撃の神様・川上哲治に代わって4番を任された。日本シリーズでも4番を打ったが、西鉄の稲尾和久の前に沈黙。巨人は3連勝のあと4連敗したが、長嶋は第7戦で稲尾からランニングホーマーを放って意地を見せた。 ルーキーイヤーに6試合連続で敬遠され、そのたびに調子を崩したと言われている。現役中、敬遠に抗議するためバットを持たずに打席に入ったことがあるが、新人の時から敬遠四球が大嫌いだった。◆清原和博(1986年プロ入り) 1年目成績 出場試合:126 安打:123 打率:.304 本塁打:31 打点:78 甲子園通算13本塁打など数々の高校野球記録を樹立。子供の頃からファンだった巨人への入団を希望していたが、巨人はプロ入りを拒否していた桑田真澄を単独指名。清原は1985年のドラフト会議で6球団が1位で競合、西武が引き当てた。 開幕2戦目に公式戦デビューし、2打席目に本塁打を放った。6月には写真週刊誌に登場。門限破りで罰金を払うなど新人離れした話題を提供した。 球宴では巨人選手の前でホームランを打ってのけた。シーズン後半戦はさらに本塁打ペースを上げ、長嶋茂雄の1年目(29本)を抜いて31本塁打を放った。 シーズン終盤には4番に定着。高卒ルーキー新記録となる本塁打数に加え、打率、打点など新人記録をほとんど塗り替え、新人王を獲得。それまで高卒野手の新人王は中西太、豊田泰光、榎本喜八、張本勲の4例しかなかった。◆松坂大輔(1999年プロ入り) 1年目成績 登板試合:25 勝利:16 敗北:5 防御率:2.60 奪三振:151“平成の怪物”と呼ばれた横浜高のエースは3球団競合の末、西武の東尾修監督が当たりくじを引き当てた。初登板は東京ドームでの日本ハム戦。1回に片岡篤史へいきなり155キロの快速球を投げ、8回2失点で初登板初勝利を挙げた。「東尾監督の配慮でデビュー戦は本拠地ではなくマウンドに傾斜がある東京ドームだった。余裕をもって投げていたので終盤でも150キロ台を投げた。マウンド上で自己修正ができ、そのため投げるたびに進化していった」(当時の西武投手コーチだった杉本正氏) イチローとの初対決(5月16日)では3打席連続三振に打ち取り、試合後のインタビューで「自信から確信に変わりました」の名セリフを残した。この年、16勝を挙げて新人王を獲得した。高卒ルーキーの最多勝は堀内恒夫以来、33年ぶりだった。※週刊ポスト2020年4月10日号
2020.03.31 07:38
オープン戦最下位決定に原辰徳監督(中央)は何を思うか(EPA=時事)
巨人、過去のオープン戦最下位時はいずれも開幕ダッシュ失敗
 3月14日、巨人は楽天と3対3で引き分け、1965年以降で5度目のオープン戦最下位が決まった。昨年、5年ぶりのリーグ優勝を果たした巨人だが、15勝を挙げた山口俊がメジャーリーグに移籍し、代打や困った時のスタメン起用で期待に応えていた阿部慎之助が引退。オフのFA市場では美馬学、鈴木大地の獲得に名乗りを上げるも、他球団に奪われ、補強は新外国人とドラフトに留まった。野球担当記者が話す。「昨年、丸佳浩と炭谷銀仁朗がFA加入したため、補強による戦力アップで優勝したと思われがちですが、セカンドのレギュラーを期待された吉川尚輝が開幕早々に離脱し、新外国人のビヤヌエバも活躍できなかった。ゲレーロが打ち始めたのも夏場でしたし、岡本和真も不振で4番を外された時期があった。それでも原監督が上手くやり繰りして、なんとか優勝に漕ぎつけた。今年は思うような補強ができませんでしたし、若手が伸び悩むと、かなり苦戦すると思います。オープン戦がその前触れと見ることもできます」(以下同) 過去4度のオープン戦最下位は1972年、1992年、2008年、2017年。川上哲治監督の下でV7を達成した1972年、第2次原政権3年目の2008年は優勝を果たしている。藤田元司監督最終年の1992年は2位、高橋由伸監督の2017年は4位だった。過去2回優勝しており、「オープン戦の順位は公式戦に関係ない」という球界の定説は、巨人に当てはまりそうだ。ただし、オープン戦最下位の年は、開幕後にある傾向が出ている。「いずれも開幕スタートダッシュには失敗しています。4月を終えた時点での順位は1972年が3位、1992年は5位、2008年は4位、2017年は3位。1972年は大型連敗もなく5月に首位に立ちましたが、1992年は4月に6連敗、5月に4連敗を2度、5連敗を1度喫して、1か月以上も最下位の時期がありました。2008年は首位・阪神に最大13ゲーム差を付けられましたし、2017年は球団史上最悪の13連敗をしてしまった。 今年の巨人は山口俊の穴を埋めるため、戸郷翔征や畠世周などの若手投手の成長が望まれています。しかし、オープン戦で不調だったり、ケガで出られなかったりと結果を残せていない。苦戦を強いられることになるかもしれません」 オープン戦最下位から優勝した1972年は長嶋茂雄の力に衰えが見え始めたが、王貞治が48本塁打、120打点で2冠王を獲得。エースの堀内恒夫が26勝とキャリアハイの数字を挙げて、最多勝に輝いた。2008年はヤクルトから移籍してきたラミレス、グライシンガー、横浜から移籍のクルーンといった外国人トリオが徐々に調子を上げ始め、北京五輪で主力の抜けた首位・阪神が夏場に失速したこともあって、『メーク・レジェンド』を遂げた。「1992年は、5月に西武から大久保博元が移籍。大久保がホームランを打つと負けないという“デーブ神話”もでき、6月7日から7月8日まで21勝2敗という驚異的な追い上げを見せ、首位にも立ちました。一方、2017年は13連敗したにもかかわらず、シーズン中の補強はなく、Bクラスに終わってしまった。百戦錬磨の原監督ですから、オープン戦と同じような成績にはならないでしょうけど、若手が成長しなければ緊急補強に走るはず。今年の巨人の戦力はずば抜けているわけではないうえ、セ・リーグ6球団の力は均衡しているので、Bクラスの可能性もある」 新型コロナウイルスの感染拡大によって、開幕が延期したプロ野球。これからの数週間で、原監督はどうチームを立て直すか。
2020.03.15 07:39
野村克也さんがクイック考案は本当か? 江本氏が明かす真相
野村克也さんがクイック考案は本当か? 江本氏が明かす真相
 84歳で亡くなった野村克也さんが、初めてプロ野球で監督に就任したのは1969年オフのこと。34歳の若さで、南海のプレイング・マネージャーに就任した。その野村さんは生前、「江本(孟紀)、門田(博光)、江夏(豊)の『南海の3悪人』には苦労した。おかげで指揮官として成長できた」とよく口にしていた。名前が挙がった江本氏は1972~1975年に南海で活躍し、1973年には野村・南海として唯一のリーグ優勝にエースとして貢献した。江本氏が間近に見た、野球人・野村さんの姿とは──。 * * * ボクが南海にいた時代から、ノムさんは熱心にミーティングを重ねていました。選手を集めては、「野球はただ打って、走って、投げているだけじゃないぞ。それだけじゃ差は埋まらない。それをカバーするものがある」と真剣に語り、「第1球はピッチャーとバッターのどっちが有利か。理由も書け」といった設問のペーパーテストもありました。 試合前のバッテリーミーティングでは「初球に何を投げる?」から始まって、「ストライクかボールか?」「2球目は?」「追い込んだら何を投げる?」と延々と続くわけです。ただ、細かい話はあくまで試合が始まる前まで。教室で野球をするわけじゃないから、計算通りにはいかない。それはノムさんもわかっていたと思います。それでも、相手の何倍も攻略法を練っていると、それが試合中の自信とゆとりになる。 だから、ノムさんは徹底したデータ野球というよりは、「オレについてこい」というタイプであった印象のほうが強いですね。表向きは緻密な野球を掲げつつも、実際には巧みな演出などで選手の心を掴み、自ら動くように仕向ける、人心掌握術に長けた人だったと思います。 ノムさんが選手に慕われていた好例として、こんな話があります。当時、パ・リーグでは阪急が黄金時代を築いていましたが、そのリードオフマンである福本豊の盗塁を阻止するために、ノムさんがクイックモーションを考案したという有名なエピソードがあるでしょう。実際には、ベテランになったノムさんの肩が弱くなり、それをカバーしようと投手陣が率先して始めたものなんです。 さらにノムさんが40歳に近くになると、右肩と右ヒジがボロボロになり、投手がクイックで投げてもアウトにできなくなった。だから最後には、福本が出塁したら、ボクはわざと大きなモーションで投げて、盗塁を許していた。そうすれば、ノムさんの責任ではなく、ピッチャーの責任になるでしょ。選手がそうやって守ってやろうとしたのは、ノムさんの人柄があったからだと思いますよ。◆長髪とヒゲを大嫌いだったワケ ノムさんが凄いのは主役だけでなく、脇役もうまく使っていたことです。南海には代打の青野修三、ヤジ将軍の大塚徹、サインの伝達役に堀井和人など、ベンチの前列にそれぞれ独自の役割を持った選手を配していた。青野さんは7回からしかベンチに姿を見せなかったですけどね。当時から、「適材適所」が口癖でした。 ミーティングの細かい話は居眠りしたりしてボクはあまり聞いていなかったですが(笑い)、基本的な考え方は大いに勉強になりました。ボクがノムラ野球の凄さを痛感したのは(1976年に)阪神へ移籍した後のことです。セ・リーグでは巨人のON(王貞治氏・長嶋茂雄氏)と対戦しないといけないが、ピッチャーから見たら王さんは欠点がないんですよ。その時にノムさんの「長所のそばに欠点がある」という言葉を思い出した。 王さんの長所は一本足打法にあります。足の上げ方を変えて、それぞれのピッチャーのタイミングに合わせている。だから、その裏をかくことを考えるようになった。それが後々、王さんを攻略するヒントになったのは間違いありません(江本氏に対する王氏の通算打率は1割3分4厘)。 あと、印象に残っているのはノムさんが長髪とヒゲを大嫌いだったこと。ボクが南海に移籍した頃はまさにそのスタイルでしたからね。キャンプ前にマスコミを集めてミナミの理髪店で断髪式をやらされましたよ。ノムさんの言うことを唯一、素直に聞いたのがそれかもしれません。解説者になってからも、神宮球場で広島の菊池(涼介)がヒゲを生やしているのを見て「おーい、おまえ、ヒゲを剃れ」とやっていましたね。名前がわからなかったんでしょう(笑い)。 ただ、ノムさん自身がもともと嫌っていたかというと、そうでもなかった。影響を受けた人がいたんです。サッチー様(沙知代夫人)ですよ。この人が、長髪とヒゲが大嫌いだった。あと、プロゴルファーの杉原輝雄さんがノムさんの大親友で、やはり長髪やヒゲを好まなかったそうです。この2人の影響を受けて、ノムさんがボクに言ってきた。それが、後年になって知った真相です。
2020.02.29 16:38
王貞治氏「金田正一さんに教わった多くのこと」
王貞治氏「金田正一さんに教わった多くのこと」
 79歳となった今も、球界の未来のために精力的な活動を続けているのが、王貞治・ソフトバンクホークス球団会長だ。年初にテレビ番組で発言した「プロ16球団構想」は大きな話題となった。同時代に活躍したレジェンドたちが次々と鬼籍に入る中、「受け継いでいくべき球界の財産」と「変えていくべき課題」について“世界の王”が語った。◆カネさんは「走り込み」の元祖 お別れの会の顔ぶれを見て、“さすがカネさんだな”と感じましたね。野球関係者だけでなく、政財界や芸能界からも大勢の人が手を合わせに来ていた。あの人を見送るのはもっと先のことだと思っていたけど……。〈1959年に巨人に入団した王氏にとって、国鉄―巨人で活躍した400勝投手の故・金田正一氏(享年86)は手強いライバルであり、心強いチームメイトでもあった。本誌・週刊ポストでは25年以上、金田氏、長嶋茂雄氏、王氏による「ONK対談」を開催。オフにフグ料理を囲みながら、マネージャーも凍りつくような暴露話から球界の未来まで“本音”で語り合った〉 国鉄時代のカネさんといえば、長嶋さんのデビュー戦で4打席連続三振を奪ったことが有名ですが、実は僕もデビュー戦で洗礼を受けています。翌年の開幕試合で初対戦して2打席連続三振(3打席目は四球)。球種は直球とカーブしかないが、真っすぐは物凄く速いし、カーブはバッターの近くでカクンと大きく曲がる。普通、サウスポーには右打者が有利で左打者が不利だというけど、カネさんの場合は逆。あのカーブは右打者の胸元に食い込んでくるから打ちにくい。だから長嶋さんより僕のほうが打ちやすかったはずだけど、それでも“あんな球は打てない”と思いましたね。 その後、22歳で一本足打法を始めてからは、カネさんからもそこそこホームランが打てるようになりました。6年間で13本かな。カネさんが「懐が深くていい」と褒めてくれて自信につながったのを覚えています。 大変な難敵でしたから、1965年にB級10年選手制度(※)を使ってジャイアンツに移籍すると聞いた時は驚きましたよ。この年はV9最初のシーズンになりましたが、僕を含むジャイアンツの選手たちがカネさんから「プロの野球人としてどうあるべきか」「体をどうケアするか」という基本を教わったことは大きかった。カネさんは「体が資本」という野球哲学で、キャンプでは自ら食材を調達して「金田鍋」を作ってくれた。よくお相伴にあずかりました。【※/現在のFA制度の前身ともいえる制度で、同一球団で10年以上在籍した選手(A級)には、残留してボーナスを得るか、自由に移籍する権利が与えられていた。A級取得の3年後にはB級選手として移籍権が再取得できる。金田氏はB級選手の資格があった】 そして走り込みの大切さを教わり、とにかくよく走った。カネさんにとっては登板明けの休養日でも、僕は野手だからゲームがあるわけです。それでもランニングに付き合わされて試合前からヘトヘトでした。ダブルヘッダーで1試合目にカネさんが投げると、2試合目が始まる前にアメリカンノックで外野を走り回る。野手は2試合目があるのに、お構いなしでみんなが付き合わされる。 走り込みで持久力がついたことで、僕は夏場の7~9月に調子を上げることができた。タイトル争いには夏場の成績が重要ですからね。今では走り込みは常識ですが、すべてカネさんが始めたこと。現役選手は意識していないけど、“金田式”は今も受け継がれているんです。◆期待とプライドと執念 ジャイアンツで一緒になって、体作りや走り込みで自分に“投資”することを学んだ。おかげさまで長嶋さんも僕も、選手寿命が延びたと思っています。長嶋さんはカネさんに体の柔軟性の大切さを教わっていた。カネさんはピッチングフォームがしなやかで、腕が柔らかい。ゆっくりとした腕の振りから速い球が来るので、バッターはタイミングが合わずに詰まってしまう。長嶋さんは体が硬かったけど、カネさんのおかげで柔軟性を身につけた。 僕は上半身が柔軟すぎるとバッティングでバネを使えなくなると考えていました。上体の柔らかさよりも、体を回転させて一気にほどくイメージで打っていたので、カネさんの理論は取り入れなかった。けれどケガ防止につながる下半身の柔軟体操は“金田式”を手本にしました。僕たちは「ONK」と呼ばれましたが、野球を学ぶという意味では、長嶋さんよりカネさんに教わったことのほうが多かったですね。 ただ、カネさんとチームメイトになると初めて聞いた時は、寂しい気持ちも少しありました。今までムキになって向かっていった相手がいなくなったわけだから。勝負できなくなって残念だった。 カネさんもジャイアンツに来て窮屈さはあったんじゃないかな。移籍1年目でいきなり開幕投手を任された。国鉄時代は“天皇”と呼ばれ、監督人事まで口を出したというけど、厳格な川上(哲治)監督の下ではそうはいかなかった。 振り返れば、カネさんは自分の思い通りに生きた人だった。高校3年生の17歳で中退してプロの世界に入り、400勝という数字だけでなく、4490奪三振、投球回数5526.2イニング、365完投などの塗り替えることができない難しい記録が証明している。この世界に入ったら限界まで突き詰めてやらないと面白くない。今の選手はやり残したことだらけ。そういう意味ではカネさんは幸せですよ。 豪放磊落なイメージの半面、繊細さも併せ持っていました。どんなゲームでも登板前はものすごく緊張する人だった。ジャイアンツからの期待や、本人のプライドがプレッシャーだったのでしょう。一緒に練習する面倒見の良さは、寂しがり屋の裏返しだったのかな。 400勝というのは無闇に投げ続けたからといって残せる数字ではありません。人一倍強い緊張感と勝負に対する執念を持ち、常に万全の態勢でマウンドに上がっていたからこそ成し遂げられた。 もちろん時代と共に変わっていくこともあります。カネさんは現役時代には先発完投、名球会でも200勝という数字にこだわったが、今は7回、8回、9回のリリーフ専門など分業制が進んでいる。カネさんはいつも“完投してこそエース”と言っていたけど、内心では先発完投の減少を“仕方ない”と思ってたんじゃないかな。※週刊ポスト2020年2月28日・3月6日号
2020.02.20 07:38
野村克也氏、名言の数々「外野手出身の名監督はいない」ほか
野村克也氏、名言の数々「外野手出身の名監督はいない」ほか
 多くの野球人から尊敬された野村克也氏が、84歳でこの世を去った。時に辛辣でありながらも愛に満ちた“ボヤキ”を続けてきた野村氏。本誌・週刊ポストのインタビューでも何度も、現役選手や指揮官たちを叱咤した。最後まで野球と真剣に向き合い続けた野村氏の「教え」を改めて振り返る──。 現役時代は名捕手であり、指導者としてはヤクルト監督時代にはリーグ優勝4回、日本一3回を達成した名監督だった野村氏。「監督論」にも人一倍のこだわりがあった。 今季から采配を振るうヤクルトの高津臣吾監督、楽天の三木肇監督をはじめ、かつての“教え子たち”が指揮官としてチームを率いるようになったことについて聞いたのが、本誌での最後のインタビュー(2020年1月17・24日号掲載)となった。「この世界は結果。結果を出せば評価は高くなる」としながらも、「名将の条件とは『勝利』だけではない。結果を出すまでのプロセスが問われてくる。信は万物の元をなすというが、監督に必要なのは選手やコーチからの信頼。それが名将の唯一の条件だと私は考えている」と話し、監督となった“野村チルドレン”たちにエールを送った。〈監督論 野村の考え〉(2016年1月1・8日号掲載)と題したインタビューの取材では、訥々と自身の見解を披露した。この年は、巨人で高橋由伸監督、阪神で金本知憲監督が誕生したが、「プロ野球は監督の人材難だよ。球界の今後が心配で仕方がない」と表情を曇らせた。「名選手必ずしも名監督ならず。現役時代にスター選手だった監督、特にバッター出身の監督は、総じてホームランが飛び交うような素人が見ても楽しい野球を好む。言い方を変えれば、ただ投げて打って走るだけの、才能に頼った荒っぽい野球。うまくはまれば強いが、いつもうまくいくわけがない。それじゃ常勝チームは作れない」 もちろん、野村氏も戦後初の三冠王を獲得するなど、現役時代から輝かしい実績を残していたわけだが、同時代に王貞治氏、長嶋茂雄氏という大スターが活躍し、自らを「月見草」と評した。そういうキャリアを歩んだからこそ、見えるものがあるという自負もあったのであろう。「スター選手は自分が抜群のパフォーマンスをできたから、みんなができると思ってしまう。だから技術指導ができず、言葉より感覚を大切にしてしまう。目の前の試合に一喜一憂して、味方がホームランを打つと、選手と同じようにベンチを飛び出してくる。もちろん、タイムリーが出たり、逆転した場面で、監督の立場として“よし”とは思うが、このあとどう守ろう、どう逃げ切ろう、と先のことのほうがオレは気になるよ」 上田利治氏や森祇晶氏、そして自身の例を挙げながら「日本一監督は捕手出身ばかりだった」という点も強調した。現役時代のポジションによって、指揮官としての素質が大きく変わるというのは、野村氏が何度も指摘したことだった。「プロ野球の歴史の中で、外野手出身の名監督はいない」と断言。「(現役時代に)外野手は試合中に考えることがほとんどない。打者によって守備位置を変えるぐらい。それもベンチの指示で動くことが多く、細かいことを考えない。外野手出身の監督は細事小事に目がいかないというのが私の持論だ。 一方、名将とされる三原脩、水原茂、鶴岡一人、川上哲治、西本幸雄は全員が内野手出身。捕手ほど細かいことを見ていないが、横の連絡を取っているので総合的な視野で見られる」 独自の視点と分析力で蓄積したデータをもとにした、野村氏の「教え」の数々―─その礎にあったのは一捕手、一監督としての誇りと野球への深い愛情だった。※週刊ポスト2020年2月28日・3月6日号
2020.02.19 16:41
野村克也氏追悼特番 地上波ゴールデンで健闘の「嬉しい誤算」
野村克也氏追悼特番 地上波ゴールデンで健闘の「嬉しい誤算」
 プロ野球の南海などで活躍し、選手引退後にヤクルトなどの監督を務めた野村克也さんが2月11日に亡くなった(享年84)。ワイドショーやスポーツニュースなどで毎日のように特集が組まれ、BSやCSでも野村さんにスポットを当てた過去の番組が再放送されている。 フジテレビは16日、地上波のゴールデン帯の『日曜THEリアル!』枠で『野村克也さん追悼特別番組秘蔵映像でつづるノムさんの野球人生と家族愛』を放送した。テレビ局関係者が話す。「ゴールデン帯でほとんどプロ野球中継がされなくなったように、地上波で野球の特集は視聴率を取れないと考えられています。今ではスポーツニュースでさえ、番組によって誤差はありますけど、野球の結果を伝える時間がどんどん短くなっている。そんな時代に、野村さんの追悼番組をフジテレビがゴールデン帯で放送すると聞いて驚きました」 同日、NHK大河ドラマ『麒麟がくる』13.2%、日本テレビ『世界の果てまでイッテQ!』15.7%、テレビ朝日『ポツンと一軒家』18.4%という強力な裏番組がひしめく中、フジ『日曜THEリアル!』は7.5%を獲得。TBS『UTAGE愛の歌合戦』7.4%(いずれもビデオリサーチ調べ/関東地区。以下同)を上回り、民放同時間帯で3位に。昨年10月に始まった同番組で、4番目に良い数字だった。フジテレビ関係者にとっては「嬉しい誤算」だったかもしれない。 番組には野村監督の薫陶を受けた江本孟紀氏、長嶋一茂氏、古田敦也氏、真中満氏、高津臣吾氏、石井一久氏が出演した。「2週間前の〈池上彰スペシャル【韓国“反日主義”の行方2020池上彰緊急取材】〉で7.6%でしたから、野村さんは野球に興味のない人をも惹き付ける魅力があると言っていい。番組では、野村さんの永遠のライバルである長嶋茂雄氏の息子である一茂氏が、同じ親子鷹である野村親子の関係性に言及したり、執行猶予中の清原和博氏からの直筆の手紙が紹介されたり、息子の克則氏(楽天コーチ)のインタビューがあったりと、見所も多かった。また、サッチーミッチー騒動の際に沙知代夫人に密着した懐かしいVTRも流れたことで、女性視聴者もチャンネルを止めたのではないでしょうか」(同前) 野球をアピールするため、監督時代には選手のテレビ出演を積極的に促していた野村克也さん。地上波で野球が取り上げられる機会が増えることを願っているだろう。
2020.02.19 11:24
出会った頃、沙知代婦人は会社経営者。互いに別に家庭を持つ”禁断の恋”の始まりだった
野村克也さん、妻・沙知代さんにゾッコンだったあの時代
 プロ野球の南海やヤクルトなどの監督を歴任した野村克也さんが2月11日、虚血性心不全で亡くなった。84才だった。 野村さんは昭和10年、日本海に面した京都府竹野郡網野町(現京丹後市)で生まれた。父親を早くに亡くし、看護師の母の女手一つで育てられた。母親は病弱で、野村少年は小学生の時から新聞配達などで、一家の家計を支えていた。 野球を始めたのは中学2年生の時だ。すぐにキャッチャーとして頭角を現し、京都ではその名を知られるように。一度は断念した高校進学も、大学進学を取りやめた兄の援助もあって実現する。そこでも野球部に入るが、所詮は弱小チーム。しかし、裕福な暮らしに憧れていた野村さんはプロになりたくて、19才になる年に、南海ホークスにテスト入団する。契約金はゼロ円だった。 1年目の終わりに戦力外通告を受けるものの、交渉で粘って残留。どうにかプロにしがみつき、3年目に努力を実らせ、正捕手の座をつかみ取った。以降、本塁打王や戦後初の三冠王を獲得し、パ・リーグの顔ともいえる存在に。 しかし、当時は巨人・大鵬・卵焼きの時代。人気はセ・リーグ、それも巨人の長嶋茂雄や王貞治にかなわなかった。野村さんが、長嶋や王を「ひまわり」に、そして自らをひっそりと花開く「月見草」にたとえたのはこの頃だった。 野球ファン以外への知名度は、監督になってからの方が上がったかもしれない。流行語にもなったID野球でヤクルトの監督として日本一を叶え、阪神時代は戦力をそろえ、楽天ではメジャーリーガーとなった田中将大投手を育てた。データに基づく采配と、独特のボヤキ節のアンバランスが、野村さんらしさでもあった。 そうした野球漬けの人生を支えたのが、2017年に亡くなった沙知代夫人(享年85)だった。「自分は田舎者。世渡りもできない。彼女は、女社長で海外のことも詳しい。スタイルがよくてきれいで、内面も太陽のように明るくサバサバしていた。本当にすごくよく見えたんだな(笑い)」 とは、当時を振り返っての野村さん本人の言葉だ。日が落ちてから咲く月見草は、見たことのない太陽の魅力にあらがえなかった。 すでに2児の母だった沙知代夫人と結婚したのは1978年。ダブル不倫の末の再婚だった。沙知代夫人は結婚前から南海のチーム運営に口を出すなど、トラブルのもとにも。関係者から「野球を選ぶのか、女を選ぶのか」と迫られた野村さんが「女を選ぶ」と答えたエピソードはあまりにも有名だ。 野村さんはこの件で、選手と兼任していた南海監督の座を追われている。◆来世も結婚するでしょう その後も沙知代夫人は野村さんをさまざまな騒動に巻き込んだ。経歴詐称問題、浅香光代さんとのミッチー・サッチー騒動、巨額の所得隠しによる有罪判決…。 その過程で嘘も暴かれた。福島出身のはずが東京出身でコロンビア大学卒という虚偽の経歴には、野村さんも騙されていた。それでも野村さんは、沙知代夫人が亡くなるまで、いや、亡くなってもなお、守り続けた。ある雑誌のインタビューだ。《次々と真実が明るみに出て、そのたびに唖然としましたよ。でも、なぜ嘘をついたのかと咎めることはしなかった。身の上を偽ってまで私といたかったのかと思うと、かえって愛おしくなりました》(婦人公論2019年8月号) この記事で、来世も沙知代夫人と結婚するかとの問いにも答えている。《来世もめぐり合って結婚するでしょう。あんな猛獣とうまくやっていけるのは自分だけだという自負もある。彼女は「冗談じゃないわよ」と言うかもしれないけど(笑)》(同前)※女性セブン2020年2月27日号
2020.02.13 16:39
大谷翔平も プロ野球自主トレ“映え写真”は記者が提案する
大谷翔平も プロ野球自主トレ“映え写真”は記者が提案する
 2月1日のキャンプインを前にプロ野球選手の自主トレも熱を帯びている。スポーツ紙を開けば、思わず笑ってしまうトレーニングも含め、その様子が報じられている。それにしてもそんな“映える写真”はどのように生まれるのか。1961年、長嶋茂雄(巨人)を超える契約金で国鉄に入団した“大物新人”だった徳武定祐氏が語る。「球団の要望で、金田正一さんと目黒の体育館で自主トレをしました。話題作りの狙いがあったようですね。マスコミに求められ、握手を交わしました」 シーズンオフ中のネタ枯れを嫌う球団が、自主トレの取材をセッティングしてメディアに声をかけているという。「願掛けの意味で、1990年に落合博満さん(中日)は三冠王を狙うため午前3時33分、2000年の松坂大輔選手(西武)は末広がりの午前“8”時、背番号の“18”分、20勝の“20”秒に始動。時計を背景にして撮りました。その場で、マスコミ側から“絵作り”を提案することもあります」(スポーツ紙記者) 2013年、当時日本ハムの大谷翔平は雪の降り積もる1月5日、在学中の岩手・花巻東高で約30人集まった報道陣の要望に応え、雪の玉を打つパフォーマンスを披露したこともある。 自主トレ中の異彩を放つ1枚は球団、選手、メディアの三位一体で生まれているようだ。◆取材・文/岡野誠※週刊ポスト2020年2月7日号
2020.01.28 16:42
王貞治氏 「16球団」発言の真意はラグビー人気への警戒心か
王貞治氏 「16球団」発言の真意はラグビー人気への警戒心か
 世界のホームラン王の発言が、球界をざわつかせている。「できるものなら16(チーム)に。あと4つチームが誕生してほしい」 ソフトバンク球団会長の王貞治氏(79)が11日、本拠地・福岡のローカル番組に出演し、「球界16球団構想」に言及したのだ。王会長の突然の発言に、ソフトバンク番記者も首を傾げる。「新春の番組で景気のいい話題を提供したかっただけなのか、もっと深い意味があるのか、周囲も真意を測りかねています。 ただ、王会長は『(16球団のほうが)CSの開催方式が円滑になる』とも発言した。背景には、ソフトバンクが昨季、リーグ2位ながら日本一になったことで、“CS制度で勝ち上がるのはおかしい”と批判を浴びたことが念頭にあったのでしょう。16球団制なら、4チームずつ4地区に分け、各地区の優勝チームがプレーオフ式に日本一を争う形となり、昨季のような批判を受けずに済む」 一方、「野球人気の低下への危機感もあるのでは」と見る向きもある。 近年、高校野球をはじめ野球人口は減少の一途を辿り、東京五輪を最後に正式種目から外れることが決まっている。 かつては1993年にJリーグが誕生した際にも野球人気の低下が懸念されたが、同年に長嶋茂雄氏(83)が巨人監督に復帰して球界を盛り上げた。ある球団関係者はこう推し量る。「昨年はラグビー日本代表が人気を集め、W杯の直後に開催された『世界野球プレミア12』の侍ジャパンの盛り上がりも、ラグビーに比べると見劣りした。ラグビープロリーグ誕生に向けた動きもある中で、体調不安もある長嶋さんに代わって、球界のレジェンドとしてプロ野球を盛り上げよう、という気持ちもあるのかもしれません」“王の一声”が「球界再編」のきっかけとなるか。※週刊ポスト2020年1月31日号
2020.01.20 16:39
江本孟紀氏 「ベンチがアホやから」発言に後悔はないのか
江本孟紀氏 「ベンチがアホやから」発言に後悔はないのか
「ベンチがアホやから野球ができへん」。野球評論家の江本孟紀氏(72)が残した一言はあまりにも有名だが、この発言に後悔はないのか。江本氏に尋ねると、意外な言葉が返ってきた。 * * * 僕の野球人生、分岐点はたくさんありましたわ。 最初に浮かんだのは「高校3年生に戻りたい」ということ。僕のいた高知商は1965年春のセンバツに出場が決まっていたが、大会3週間前に部員の不祥事が発覚し、出場辞退。1年間の対外試合禁止処分を受けた。優勝候補の筆頭でしたから、出場していればセンバツでも夏の甲子園も優勝していたでしょう。 そしたら、その年の秋から始まったドラフトで憧れの長嶋茂雄さんがいる巨人に指名されていたと思うんです。巨人は欲しい選手はどんな手を使っても獲得しようとするから、江川事件じゃなく“江本事件”を起こしていたかもしれません。 プロ入り後は、1年目のオフに南海にトレードされてノムさん(野村克也氏)とバッテリーを組んだ。いきなり16勝をあげ、4年間で52勝。もっとノムさんと組んで投げたかったですね。 その後、江夏豊との交換トレードで1975年に阪神へ。6年目の1981年8月26日のヤクルト戦で“あの事件”が起きたんですわ。 3連敗脱出のかかった大事な試合。3点リードの8回、3連打を喰らって1点差に追い上げられ、2死ランナー二塁。バッターは8番で、次は投手の打順。普通ならコーチが出てきて、敬遠を指示する場面だった。 ところが、ベンチを見たら監督がおりまへんのや。“中西(太)監督は肝心な時に逃げてしまう”とは聞いていたが、まさかここでとは思わなかった。勝負した結果、外野フライにエラーが絡んで同点になった。 その裏、僕に代打が出たから、ロッカールームに引き上げながら“あいつ何考えとるんや、アホか。ホンマ、野球ができんやろ”と独り言を言ったんです。振り返ったら、若い記者が3人ついて来ていた。 すると翌日のスポーツ紙の1面に「ベンチがアホやから野球ができへん」と大見出し。ここまではっきり言った覚えはないが、正面切って否定する気にもなれなかった。球団から呼び出されて、10日間の謹慎処分を言い渡された。それで、「ほな、やめますわ」と吐いてしまったんです。 あの発言を撤回していたら……。当時の阪神では2桁勝てるピッチャーは貴重でしたから、そのまま投げ続けて、野球殿堂入りとまでは言わないが、甲子園歴史館にユニフォームが飾られるくらい活躍していたと思います。ただ、あの事件がなかったら、ベストセラーになった『プロ野球を10倍楽しく見る方法』も書いてなかったから、よかったかもしれません(笑い)。●えもと・たけのり/東映、南海、阪神で113勝をあげる。34歳で引退後、『プロ野球を10倍楽しく見る方法』が200万部を超えるベストセラーに。参議院議員を2期務めた。※週刊ポスト2020年1月3・10日号
2019.12.20 20:41
きんさんぎんさんはCMにも出演(AFLOの)
1990年代新語流行語 メークドラマ、失楽園、ブッチホンなど
 1年の間に発生した出来事にまつわる話題の言葉を選ぶ「ユーキャン新語・流行語大賞」。これまでの主な「年間大賞」を振り返りながら、「時代と寝た言葉」と当事者たちのその後を追いかける──。■1992年【うれしいような、かなしいような】 テレビCMでお茶の間の人気者となった双子の成田きんさん・蟹江ぎんさん姉妹。100歳の誕生日を迎えた感想の言葉が流行語に。きんさんは2000年、ぎんさんは2001年に亡くなったが、ぎんさんの娘の4姉妹も長寿でメディアで活躍した。■1994年【すったもんだがありました】 電撃的なニュースとなった女優・宮沢りえと貴花田(現貴乃花光司)の婚約・破局騒動の翌年、リンゴをすりおろしたチューハイのCMで宮沢が言った自嘲的なセリフが話題に。宮沢は2018年にアイドルの森田剛と再婚。貴乃花は20年以上連れ添った河野景子と2018年に離婚した。■1996年【メークドラマ】 ミスタージャイアンツ・長嶋茂雄監督(当時)による造語。首位と最大11.5ゲーム差が開き優勝が絶望的と思われたジャイアンツが快進撃を続け、逆転優勝を果たした。長嶋は2001年に巨人軍の終身名誉監督に就任した。■1997年【失楽園(する)】 不倫をテーマにした渡辺淳一氏のベストセラー小説が映画化され、役所広司と黒木瞳の大胆な濡れ場も相まって大ヒット。多くの中年男女を虜にした。同年には古谷一行と川島なお美によるドラマ版も放送され、「失楽園する」が不倫の代名詞となった。■1998年【だっちゅーの】 バラエティ番組『ボキャブラ天国』でブレイクした浅田好未、西本はるかによるお笑いコンビ「パイレーツ」。ネタよりも、胸の谷間を強調させたこのポーズを心待ちにするファンも多かった。現在、浅田は実業家、西本は女優として活動している。■1999年【ブッチホン】 当時、総理大臣だった小渕恵三氏が突然かける電話のこと。電話の相手は政財界のみならず、歌手や作家、タレントなど、幅広い人々におよんだ。このことが国民に好感を呼び、発足当初に戦後最低と揶揄された内閣支持率は51%に跳ね上がった。※週刊ポスト2019年12月13日号
2019.12.03 07:17

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