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2013.08.22 07:01  週刊ポスト

中森明菜を生んだ『スター誕生』 1秒も待たずに審査終了も

 1971年に放映を開始した伝説のオーディション番組「スター誕生!」(日本テレビ)。デビュー第1号の森昌子に続き、山口百恵、桜田淳子が相次ぎ成功を果たしたことで少女たちの羨望の的となる。『あまちゃん』(NHK)でヒロイン母親役を演ずる小泉今日子も出身者の一人だ。そして、同じく出身者のひとりである中森明菜がオーディションを受けた当時の様子を、ジャーナリストの安田浩一氏が綴る。

 * * *
 明菜が日本テレビのオーディション番組「スター誕生!」に最初の応募はがきを送ったのは、清瀬中学に入学してすぐのことである(1978年)。

 明菜の父・明男によれば、「家族の誰にも相談することなく」はがきを投函したという。

「その後、明菜が応募したことを知って誰よりも喜んだのは家内でした」

 歌手になれなかった母親からバトンを引き継ぎ、13歳の明菜は猛然とダッシュを始めたのである。その頃、「スタ誕」は、明日のアイドルを夢見る少年少女にとって、もっとも身近な歌謡界の“入り口”だった。この番組で認められれば、スターへの道は約束されたも同然だった。

「スタ誕」の放映開始は1971年。番組発案者は作詞家の阿久悠である。素人の中に埋もれた才能を発掘し、番組がそれをバックアップするといったコンセプトは、それまで大手芸能プロダクションのスカウト活動によって牛耳られていた芸能界への回路が、いわば世間に広く“開放”されたという意味において画期的なものだった。

 キャバレーで下積み生活を送りながら芸能界との接点を求めていた明菜の母親からすれば、隔世の感があったことだろう。芸能界も機会平等の時代に入ったのである。

 当時、CBSソニーのプロデューサーだった酒井政利は、「スタ誕がアイドル黄金期をつくりあげた」と述懐する。

「もしかしたら自分もアイドルになれるかもしれないというシンデレラ幻想が世間に生まれた。同時に、レコードの購買層も、より下の世代へ広がるという効果もあった」

 この時代、芸能界は手を伸ばせば届きそうな距離にまで降りてきた。スタ誕は日本の芸能史にとって、間違いなく重要な役割を果たしたことになる。ちなみに番組への応募者総数は放映期間12年間で約200万人にも及ぶ。

 明菜のもとに日テレからスタ誕予選会の案内が届いたのは、応募はがきを投函してから約1年が経過した頃だった。当時は応募者数があまりにも多く、順番が回ってくるまで、それほどの時間を要するのは当たり前だった。

 番組に出演するためには、まず、予選会を通過しなければならない。

 予選会の会場は有楽町の駅前にあったデパート「そごう」7階のよみうりホールである。その日、予選会には8千人もの応募者が集まり、審査を待つ人の列は、デパート1階の入り口まで続いた。

 応募者は、番組ディレクターなどによる審査員の前で、ひとりひとり歌唱の審査を受ける。この審査に合格した者だけが番組に出演することになるのだが、毎回、合格者は10人前後。相当な難関だった。

 当時、予選会でピアノ伴奏を担当していたのが、後に明菜のボイストレーナーを務めることになる大本恭敬だった。

「審査は流れ作業のようだった」と大本は言う。

「アコーディオンの横森良造さんと一緒に伴奏を担当したんです。毎回、あまりにも多くの参加者があるので、一人当たり約5秒程度で審査を終えることがほとんどでした。歌の出だしで躓いて、1秒も経たずに審査終了を告げるブザーを鳴らされる人も少なくなかった。歌唱力だけでなく、瞬時に顔やスタイルなどもチェックされていましたね」

 この日、明菜が歌ったのは岩崎宏美の「夏に抱かれて」だった。ラテンなノリで、しかも音域が広い難しい曲だった。

 全員の審査を終えた後、黒板に合格者の番号が書かれていく。このときの合格者は10人。

 明菜の番号が、そこには記されていた。(文中敬称略)

■安田浩一(やすだ・こういち)1964年静岡県生まれ。週刊誌記者を経て2001年よりフリーに。事件、労働問題を中心に取材を続ける。近著に“ネット右翼の病理”を炙り出し、第34回講談社ノンフィクション賞を受賞した『ネットと愛国』(講談社刊)など。

※週刊ポスト2013年8月30日号

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