本書に描かれる社会問題もその一つだろう。帰国後も言葉や就職の壁に阻まれ、かえって孤独や貧困を深める残留孤児の心の傷や支援の問題。大陸で人々を待ち受けた厳しい現実や戦後の過酷すぎる敗走など、氏の描写は単なる背景とは思えないほど、巧緻を極める。
「特に社会派を目指さなくても、社会の一員としてはやはり無関心でいられないというか。小説一つで何が変えられるとも思いませんが、自分たちが生きているすぐ隣にはこんな苦境にある人たちや過酷な現実もあると知ってもらえれば、少しは意味があるのか、と」
そんな等身大の問題意識に貫かれた物語は、その後も二転三転。 の人物から度々届く〈点字の俳句〉やコンテナ会社が絡んだ密入国事件、さらには和久自身の屈託や記憶の空白もあらぬ悪戯をし、〈たった一行のくだりで殆どの や違和感は解消してしまう。そこで世界も反転する〉と、京極夏彦氏は賛辞を寄せる。
「僕も2年連続で最終まで残った翌年は二次止まりで、悲観的なことばかり考えた。でも、やれるだけやろうと開き直った結果が今回の受賞でした。やはり自分の見ている世界だけが正しいという思い込みほど、怖いものはありませんね」
〈深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗き返している〉とニーチェは言ったが、全ては〈疑心の底なし沼〉の為せる業だった。そして闇は誰の心にも棲みつき、主人公が転がり落ちた猜疑の暗い淵も、その心の目が微かに見出す信頼の光も、決して彼だけのものではない。
【著者プロフィール】下村敦史(しもむら・あつし):1981年京都府生まれ。1999年に高校を2年で自主退学し、大検取得。「僕は剣道部で、二段は取ったんですが、そのぶん勉強が遅れてしまって。だったらもっと自分で学べることがあるんじゃないかという、若気の至りです」。その後はフリーターをしながら投稿を続け、本年本作で第60回江戸川乱歩賞。京都在住。「介護が必要な祖父母が近所にいて、敬語で話す相手が多いせいか、あまり関西弁は出ないほうですかね」。170cm、78kg、A型。
(構成/橋本紀子)
※週刊ポスト2014年10月3日号