〈「……監督、ぼくはどうしてもこのままで終わりたくはないんです。長嶋にバットマンとして、あと一年、最後の勝負を賭けさせてください。(中略)ご苦労なのを承知のうえでのお願いです。どうか、もう一シーズン、巨人の監督を続けてくれませんか。お願いします」〉
長嶋の申し出に、川上監督は顔を紅潮させながら、こう話したという。
〈「よし、わかった。よく本心をいってくれた。よくいってくれた……」〉
この1年後の昭和49年、長嶋は本当に現役を引退し、即監督に就任した。亜希子夫人を始め、仲の深い先輩や友人ほど、現役引退即監督就任に猛烈に反対したという。V9メンバーに衰えが見え始めていた上に、巨人には有望若手があまりおらず、昭和40年に始まったドラフト制度が定着してきたことで、他球団も力を付けていた。戦力的に下り坂になっている状況のなかで、偉大過ぎる川上監督のあとは荷が重過ぎる。それでも、長嶋は監督を引き受けた。
〈「どうしようもないんだ。あえてオレが泥をかぶるさ」ぼくは、そういって女房を説得し、友人たちにも納得してもらった。〉
この言葉からも、長嶋は流れに抗えず、監督に就任せざるを得なかった、と考えられる。そして、長嶋が監督就任1年目の昭和50年、巨人軍は史上初の最下位に転落したのだった。
こう見ると、当時の長嶋と現在の由伸が置かれている状況は、酷似しているようにも思える。今の巨人は、主軸の阿部慎之助が来年37歳を迎えるなどレギュラー陣の高齢化が目立ち、先発投手も安定感のある菅野智之を除けば、マイコラスとポレダという外国人頼みの側面も強い。逆指名ドラフト時代と違い、毎年有力選手が獲得できるとは限らないことからも、長嶋同様、茨の道が待っているといえる。
何よりも、1年の猶予をもらったうえで監督に就任した長嶋と違い、由伸は、「(監督要請3日前、17日のヤクルト戦が行なわれた)神宮で負けてから、来季に向けて選手として気持ちを切り替えていたところだったので(監督要請に)驚いている。まだまだできるのではないかという思いもある」と青天の霹靂に戸惑いを隠せておらず、現役への未練も見せていた。
23日に監督就任要請を受諾したものの、長嶋監督誕生時とは違い、由伸に対してはあまりにも急な申し出だったことは間違いない。由伸本人や巨人にとって、前途は多難だ。