「ラグビー仲間と酒を飲んでいてタケさん(伊藤)の引退話になって。それで酔った勢いで電話したら、あの底抜けに明るいタケさんが沈んでいる。だったら釜石で一緒にやろうよ、と声をかけたんです」(吉田)
吉田は東日本大震災があった2011年に釜石シーウェイブスに移籍し、被害を目の当たりにしていた。「震災で釜石は打撃を受けたけど、ラグビーで町を復興させようと頑張っている」。吉田のこの言葉は、伊藤のかつての記憶に重なった。
「僕が神戸製鋼に入団した1994年のシーズンに、神戸は釜石以来となる日本選手権7連覇を達成します。決勝戦があったのは1995年1月15日。V7の戦士の一員になれたわけですから、嬉しかったですよ。でもその2日後、阪神・淡路大震災に襲われたんです」
神戸製鋼のグラウンドは液状化。チームの廃部も噂された。だが、自分たちのラグビーで神戸を勇気づけようと伊藤らは奮闘。震災から5年後、神戸製鋼は日本一に返り咲く。日本一のチームの中心にいたのは伊藤だ。
「あの時は、日本中のたくさんの人たちに助けてもらいました。そのお陰で、今の自分がある。だったらその時の恩を釜石で返したい。そう思ったんです」
伊藤の心中に、再び火が点った。伊藤は早速、釜石シーウェイブス首脳部の桜庭吉彦(現・釜石GM)に電話を入れた。桜庭は伊藤にとって、日本代表で同部屋になったこともある先輩だった。だが答えはNO。40歳を過ぎた選手を受け入れるのは、チームにとってリスクが高かった。