──松平さんはNHK時代に「その時歴史が動いた」の司会を担当し、戦国武将や維新の志士についての著書もあります。
松平:長年、歴史を勉強してきて感じることのひとつは、古今東西、歴史は勝者の視点で語られる、ということです。その最たるものが明治維新ではないでしょうか。本書の著者の原田伊織さんもお書きになっているように、薩長は自分たちを官軍、幕府側を賊軍とし、維新後は江戸時代を全否定しました。
しかし実は江戸時代にこそ世界に誇るべき社会が作られているのです。僕は久松松平(徳川家康の異父弟の家系)で、家康とは遠くでかすかに連なる者として、多少「江戸」に肩入れしているところはあるかもしれませんが(笑)。
たとえば明治維新以降、徳川幕府の鎖国政策は間違いで、鎖国ゆえに日本の近代化が遅れたと批判されました。しかし、実際は「江戸四口」と言って、長崎でオランダに、薩摩で琉球に、対馬で朝鮮に、松前でアイヌにと、必要に応じて門戸を開いていたのです。それ以外は閉じていたわけですが、そのことで外国からの脅威にさらされることなく、内政に力を注ぐことができたのです。
──そのおかげで作られた江戸の先進的なシステムとは?
松平:ひとつは舟運です。特に、日本海、瀬戸内海を通って北海道や日本海側の港と大坂、江戸との間で交易する北前船が盛んで、日本経済を大きく発展させました。陸では東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道の五街道。17、18世紀にあれだけ街道が整備されていた国は世界でもほとんどないでしょう。加えて多くの宿場が設けられ、伝馬、駕籠、飛脚が置かれ、通信も発達しました。
3つ目が新田開発。家康が江戸に入った頃、利根川は今のように太平洋ではなく東京湾に注ぎ、しょっちゅう氾濫を起こす暴れ川でした。そこで家康は、人工的に今のように流れを変え、堤防や農業用用水路を作りました。その「利根川東遷事業」によって水害が防がれ、北関東に新田が開発され、関東と東北との舟運が開かれました。
もうひとつは下水道の整備。玉川上水など「江戸の六上水」が敷かれ、下水道と区別された。そのおかげもあって江戸の町の衛生が保たれたのです。同時期のパリやロンドンが糞尿まみれだったのとは大違いです。長屋ごとに井戸があり、そこで米や野菜を洗い、洗濯するためにおかみさんたちが集まり、井戸端会議という地域コミュニティが形成されました。