その最大の事業が、終戦2年目の1947年に計画された鉄鋼ビルの建設だ。焦土と化した国鉄東京駅の八重洲一帯の再開発である。当の聡一郎が解説してくれた。
「戦後、東京都が財政難に陥り、埋め立てられたお堀を払い下げるとき、祖父が買わせていただいたのです。祖父がひとりで勝手に買ったわけじゃなく、戦後復興の象徴的プロジェクトでした。広島県出身の政財界の集まりがあり、(島根県生まれで広島県育ちの)永野重雄さんが八幡製鉄の社屋を東京に置こうとし、池田勇人さんが計画をつくった。(運輸次官だった)住田正二さんも復興事業に加わっていました」
永野は、戦後、富士製鉄社長として八幡製鉄との合併を成し遂げた財界人だ。一方、大蔵官僚だった池田は戦後の復興・補償を担い、日本軍の出入り業者と折衝してきた。
土地の払い下げを受けた増岡登作は1949年、不動産管理会社として「鉄鋼ビルディング」を設立。1951年7月、第一鉄鋼ビルが竣工する。東京駅周辺でいえば、三菱地所の丸ビルが知られるが、鉄鋼ビルはそれと肩を並べる戦後初の高層ビルとして誕生している。まさに日本の高度経済成長のシンボルとして栄えてきた。
登作は鉄鋼ビル建設計画さなかの1949年1月に行なわれた衆院選で中選挙区時代の広島二区から出馬した池田をバックアップした。そこから自民党との太いパイプを築いていったとされる。1967年には、次男の増岡博之を政界に送り込んでもいる。増岡組は政界とのつながりを保ちながら、そうして130年近い社歴を誇る日本屈指の名門企業となる。
もっともその増岡家も政治に翻弄された部分もあるようだ。増岡聡一郎はこうも話した。