◆「理事長にはさせない」
初の一代年寄となった第48代横綱・大鵬は、優勝回数32回(史上2位)。人気も実力もある大横綱だった。引退後も親方として“角界の顔”になるとみられていたが、大鵬が理事長の椅子に座ることはなかった。
「審判副部長だった36歳の時に脳梗塞を発症して左半身に軽いマヒが残り、“本場所の土俵で優勝賜杯を渡す理事長職は難しいから”と表向きいわれてきたが、実際は違う。一門内、協会内での勢力争いに敗れたのです」(前出の後援会関係者)
大鵬が引退した1971年当時、所属する二所ノ関一門には2人の理事がいた。1人は大鵬の師匠である二所ノ関親方(元大関・佐賀ノ花)。もう1人は初代・若乃花(1962年に引退して当時は二子山親方)を育てた花籠親方(元前頭・大ノ海)だ。部屋の所在地から二所ノ関親方のグループは“両国勢”、花籠親方を中心とする親方衆は“阿佐ヶ谷勢”と呼ばれた。
そうしたなかで、1975年に大鵬の師匠だった二所ノ関親方が亡くなる。
「一門内で候補を調整し、理事選は無投票が当たり前だった時代。二所ノ関一門の後継理事選びで、当初は“両国勢”から大鵬親方が選ばれるとみられていた。だが、翌1976年の理事選の時点で35歳とまだ若かったことに加え、“阿佐ヶ谷勢”が横綱・輪島、大関・貴ノ花、魁傑ら人気力士を数多く輩出して勢いづいていたこともあり、二子山親方が理事に選ばれた。大鵬親方は役員待遇への昇進にとどまり、その翌年、脳梗塞で倒れたのです」(ベテラン記者)