父親が日銀行員だった沓沢さんは面接試験で「父の跡を継ぎたい」とアピールして見事内定。出納局に配属され、札束の枚数を確認したり偽札の混入をチェックしたりする事務仕事に就いた。
「仕事は朝9時から夕方4時まで。休憩時間もあったから、実質労働時間は6時間。残業がなく意地悪な先輩もいなくて、今でいう“ホワイト企業”の極みでしたね(笑い)」(同前)
当時の初任給は7800円。沓沢さんは初任給で自分へのご褒美として7000円のスケート靴を購入し、母親にハンドバッグをプレゼントした。日本が敗戦後の廃墟から立ち上がり、明るい未来の礎を築いていく時代に、沓沢さんら女子行員は“アフター4”をエンジョイした。
「当時はスケートが大流行していて、仕事が終わったら、スケートに出かけました。あの頃貴重品だったアナログレコードで音楽を鑑賞するレコードコンサートや社交ダンスにも同期や後輩の女の子たちと繰り出しました」(同前)
当時の職場はどこまでも「家族的」だった。
「身内が多くて私を含め『○○さんの娘さん』と呼ばれる人ばかり。私も父から『幾子の部署の○○さんは俳句が趣味で…』と行員の“個人情報”をよく聞いていました。行内のクラブ活動や社員旅行も活発で社内結婚も多かったですね。“絆”が強すぎるからか、茶道部の発表会のとき女子行員が彼氏の車で送ってもらったら、あっという間にその子の父親に話が伝わって大騒動になったこともありました(苦笑)」(同前)
行内では男女を問わず仲がよかったが、目指す未来は男と女ではっきり違っていた。
「春になると人事異動の一覧が職場に貼り出されるんです。それを見た男の人たちが一喜一憂していて、“ああ、男性は大変なんだな”と思っていました。当時の女子行員は男性と肩を並べて出世しようなんて思いつきもしない。結婚か出産で銀行を辞めるのが当たり前でした」(同前)
沓沢さんも出産を機に5年目で退職。その頃の多くの女性たちと同じく専業主婦として家庭を守る道を選んだ。しかし高度経済成長期を迎えて会社員として働く女性が増えるにつれて、「会社という大家族の娘」というポジションを受け入れていた女性の意識が少しずつ変化していく。
最大のきっかけが、1963年に誕生した「OL(オフィスレディー)」という造語だ。当時、働く女性は「BG(ビジネスガール)」と呼ばれていたが、この言葉はアメリカで「商売女」を意味した。多くの外国人が来日する東京五輪の前年ということもあり、新しい呼称が求められていた。
そこで雑誌『女性自身』がBGに代わる言葉を誌上で公募すると、爆発的な応募があった。その結果、第1位に輝いたのが「OL」だったのだ。だが、この結果には秘話がある。当時、同誌の編集長を務めていた櫻井秀勲さん(87才)が内幕を明かす。