帰国後、小野澤氏は郵政省に入省し、事務官となる。
それからおよそ10年後、昭和32年7月のある日、第一次岸信介内閣で戦後初めて30代で大臣に就任した若手代議士が、郵政省の講堂で就任挨拶をしていた。小野澤氏は独特のダミ声と話し方に耳を奪われた。どこかで聞いた声、見覚えのある顔。降壇する若い大臣に、小野澤氏は駆け寄った。
「オイ、田中二等兵じゃないか!」
「あっ! 小野澤伍長」
およそ15年ぶりの再会に、お互い相好を崩し、喜び合ったが、その場で角栄は「オレの秘書になってくれよ」と頼んだという。その一声で、小野澤氏は、郵政大臣の秘書に抜擢されることになった。
自分を一度も殴ったことがなく、かばってくれた恩人を角栄は覚えていたのだ。
「二人で靖国神社に参拝したこともあったようです。父は、角栄さんに『昔はオレのほうが偉かったが、今はお前のほうが偉くなったなあ』と言って、二人でよく笑ったと話していました」(惠美子さん)
その当時、角栄から贈られたのが、直筆の「和を以て貴しと為す」の書。今も惠美子さんが大切に保管している。
角栄が郵政大臣を務めていたのは1年ほどで、その後、出世街道をどんどん登り詰めていく。小野澤氏は70歳まで郵政省に勤めた。
その間に、角栄は総理大臣になり、ロッキード事件が起き、一審・二審で有罪判決。政界引退を余儀なくされ、刑事被告人のまま平成5年に世を去った。