堀口氏が強調するのは、当時の吉原遊郭は「文化の中心地」といえる場所だった点だ。
「『太夫』と呼ばれる当時の高級遊女は、一流の女優やトップタレントのような、当時の女性たちの“憧れの存在”でした。容姿の美しさはもちろん、幼い頃からの英才教育によって文学や歌舞音楽、茶道、生け花などあらゆる教養をマスターしていました。数多くの浮世絵や美人画に描かれて、土産物としても人気を集める“トレンドリーダー”でもありました。
そのため、男性は事前に予約をしないと目当ての太夫に会えないこともありましたし、遊女が気に入らない客は、たとえ大名であっても“振る”ことができたのです」(堀口氏)
それだけに、客には厳しい条件が課せられていた。とくに、同じ遊女のもとに「3回通って初めて行為に及ぶことができる」という“不文律”があったという。
「当時は、初めての登楼を『初会』といい、必ずしも同衾(ひとつの寝具で一緒に寝ること)できるとは限りませんでした。“初会には 壁に吸い付く ほど座り”という川柳が残っていて、お供を連れて座敷に入ってきた遊女は当然のように上座に座り、遊客はものすごく遠く離れた位置に座るのが常でした」(堀口氏)
2回目の登楼は『裏』、同じ遊女を指名することを『裏を返す』と言った。“裏の夜は 四五寸近く 来て座り”と詠まれたように、2回目でも、初会より少し近づけるだけだったという。