「ボスと一緒に京都の東映太秦撮影所に行くと、入り口の右手に俊藤さんのプロダクションがあって、そこに挨拶してから俳優のところに行く。鶴さん(鶴田浩二)、健さん(高倉健)、文ちゃん(菅原文太)とは、ボスの縁で知り合った」
東映が、ヤクザ映画に舵を切ったのは、俊藤をプロデューサーに迎え、鶴田浩二と高倉健を2枚看板に、任侠映画を次々にヒットさせてからである。鶴田には『博徒』や『関東流れ者』などのシリーズがあり、高倉には、『日本侠客伝』や『昭和残侠伝』などのシリーズがあった。賭場の仕草など現場の緊張感は、菅谷が教えた。
「義理人情を重んじる寡黙なヤクザ者」が高倉の役どころだったが、天野が知る高倉はコーヒー好き、話し好き、本好きの親しみやすい役者だった。
「健さんは、太秦の撮影所で麻雀やったり、博打やったり、女遊びをしたりせぇへんかった。酒も飲まんしね。でも人嫌いというわけやないよ。晩年もわしとは通ってる病院が一緒で、よう会うた。二人で会うと貸し切りの別室でいろんな話をした。あの人は撮影が終わると海外のいろんな所に行って、いろんな本を読むから知識が豊富。コーヒー飲みながら、饒舌に話してくれたよ」
高倉は、俊藤プロデュースで菅谷を主役にした実録映画『神戸国際ギャング』で主演を務めた(1975年公開)。天野によれば、そこが高倉と俊藤(東映)の終わりの始まりである。
「たいしたことがない映画やった。三流映画というかB級映画というか。映画で描かれたのが、実際にあった話なのは事実。そこは、俊藤さんは事実や細部にこだわる人やから。でも、健さんの美学には合わない。(劇中では)週刊誌を読みながらセックスしたりするんやから」