こうしたなか、町井は韓国の朴正煕政権の意向を受けて、韓国側の要人と大野らをたびたび引き合わせ、1965年の日韓国交正常化実現の環境整備に一役買った。
その前年、1964年の東京五輪では、韓国選手の渡航費用や宿泊費、機材費などを支援。1966年には韓国オリンピック委員会の委員にもなっている。
◆大統領の警護を依頼
町井と同じ1923年に生まれ、大阪を拠点としたことから、「東の町井、西の柳川」と並び称されたのが、柳川次郎こと梁元錫(ヤン・ウォンソク)である。
日本の植民地時代の釜山に生まれ、7歳の時に母に手を引かれ、海峡を渡った。終戦直後の大阪を暴力でのし上がり、1958年に柳川組を旗揚げ。翌年には山口組の傘下に入った。
その凶暴さから「殺しの軍団」との異名を取った柳川組は、山口組の全国進出の尖兵として関西から北陸や山陰、東海、そして北海道へと勢力を拡大し、1969年に解散するまでに1700人の構成員を数えた。
柳川が、韓国の政財界に食い込むようになったきっかけも、やはり「ピストル朴」だった。朴正煕政権とも関わりの深い韓国人老学者が経緯を明かす。
「1972年に朴正煕大統領が国賓として日本を公式訪問することになり、朴鍾圭が警視庁と警備計画を協議したのですが、天皇の警備でもやらないほどの厳重さを要求したそうです。朴鍾圭にすれば、それが大統領への忠誠を示すものだったのでしょう。日程には大阪も含まれていたので、大阪府警とも同じようにやったのですが、それでも足りないと思ったのか、朴鍾圭は警察以外の者にも警備への協力を求めた。それが町井であり、柳川だったのです」