1987年の作品は、編成部主導で慌ただしく制作されていたのだ。その中で、亀山氏が企画した『ラジオびんびん物語』は、田原俊彦と野村宏伸の新鮮なコンビが受け、同年の『月9』唯一の視聴率20%台を記録(ビデオリサーチ調べ/関東地区。以下同。8月10日・2話20.5%)。
◆「打ち上げどころか彼は、本番中に子供たちと泣いた」
好評を受けて、翌年4月から“びんびんシリーズ”の続編を作ることになった。だが、放送の4か月前になっても、まだ設定すら決まらない。亀山氏は、制作を請け負う東宝本社のある銀座に何度も出向いていた。
〈師走の銀座は賑わっていた。そんな情景がこちらの焦りに拍車をかける。ふと、行き交うサラリーマンや買い出しに忙しい主婦などの間をすりぬけるようにして進んでいくランドセル姿の小学生を目にした。(中略)向う側から迫ってくる大人の群れを必死でかきわけていく小さな背中が、何ともたくましく、思わず「がんばれよ」と声をかけたくなった。その時“これだ!”と思った。龍之介と榎本を学校の先生にしたい!〉(『調査情報』1992年7月号)
こうして、“学園ドラマ”というコンセプトが生まれた。1979年『金八先生』の生徒役でデビューした田原俊彦が教師役を務める。田原の父親が小学校の教師だったことも因縁を感じさせた(※のちに亀山氏はこの事実を知る)。これらは、新聞や雑誌の見出しになるトピックであり、最初に視聴者を惹き付ける大きな宣伝材料となった。
ただ、それだけでは興味は続かない。亀山氏の企画をもとに、脚本家の矢島正雄氏が「都心の過疎学校を舞台にしたい」と提案。バブル景気に沸いていた当時、東京・銀座の土地価格は驚くほど高騰し、住まいを郊外に移す子持ちの家庭が増え、小学校の統廃合の話が持ち上がっていた。
ドラマは、銀座第一小学校の5年1組(生徒16名)に徳川龍之介先生(田原俊彦)が赴任するところから始まった。時代背景に即した絶妙な設定で、初回24.9%と当時の『月9』最高視聴率を叩き出し、その後も20%前後を推移した。