しかし、1964年のパラリンピックは、それを観戦した者が「ちょっとした会社の運動会に見えた」と語るような雰囲気の大会だった。
日本社会に「障害者スポーツ」という概念も浸透していなかった時代、美智子妃はなぜこの大会に特別な思いを寄せたのだろうか。
◆美智子妃を導いた2人の女性
障害者の国際スポーツ大会をオリンピック直後の東京で開催する──正式決定したのは、実は開催1年前のことだった。
そのため具体的な動きは1960年、ローマ・オリンピックの後に開かれた第9回国際ストーク・マンデビル競技大会(通称・第1回パラリンピック)を、ある1人の日本人女性が観戦したことに始まる。彼女の名は渡辺華子という。
ローマ大会には戦災や労災、病気などで下半身麻痺になった選手約400人が集まった。その模様を観戦した彼女は読売新聞(1961年7月8日付)に寄せたコラムで《そのふんい気はまさに草運動会といったところ。実をいえば、私は対抗意識と緊張感の過剰な一般オリンピックよりも、このなごやかな、文字通り勝つことよりは参加することを目的としたパラリンピックの方が、気分がくつろいで見ていてずっと楽しかった》という感想を持ったと書いている。
ILO(国際労働機関)での勤務経験もある渡辺は、帰国後に聖心女子大学で特別講義を行った。その際に同大学の卒業生である美智子妃に会い、あらためてローマで見聞きした大会の様子を東宮御所で説明した。前出の渡邉氏は『文藝春秋』2012年2月号に、そのときの様子を次のように描いている。
《妃殿下は渡辺さんの話をノートにとりながら熱心に聞かれ、まず皇太子殿下(現在の天皇陛下)にお話になり、当時の東宮大夫などとも相談されつつ、お立場上許される範囲でお知り合いのスポーツや福祉の関係者に話され、意見を聞かれました》
その後、美智子妃は《ふさわしい関係官庁につなげられたことに安堵され、以後は問題をその人々の手にゆだねられました》という。