〈こいつは今の失敗を反省し、2回以降きちっと抑えてくれるだろう――。藤田監督は、そう確信したからこそ、私を続投させたのであろう。「部下への信頼」を私は感じたのである。藤田監督は顔色ひとつかえない。よし、それだけ信じられているのだったら、おれも〉
〈この日の試合で、私が1回半ばで交代させられていたら、おそらく私はまったくちがった人生を歩んでいたにちがいない。すでに企業への就職もほぼ内定していたのだから〉(前掲『一勝二敗の勝者論』)
関根は2リーグ分裂の昭和25年、藤田が監督に就任した近鉄パールスに入団。16年間の現役生活で投手、打者の両方でオールスター出場という偉業も成し遂げ、昭和40年限りで引退した。
指導者に転身すると、何人ものスラッガーを育てた。昭和45年、広島の打撃コーチになると、山本浩二や衣笠祥雄などを我慢強く鍛えた。衣笠はこう振り返っている。
〈ナイター終わって11時から、合宿所にいる選手は全員、関根さんに30分ぐらいバットスイングを見てもらって、順次声かけてもらって上がれるんです。ある日、あんまり打てないんで、憂さ晴らしに飲みに出たら3時過ぎになっちゃって。そしたら関根さんはロビーにいらっしゃいました。「叱られる」と思ったら、怒らなかったですね。「やろうか」って、たったひと言。(中略)当時、23歳です。諭し方って、怒るだけじゃないんだというのを初めて覚えました。こたえましたね。あれ以来、そういうことをしなくなりましたから〉(平成22年2月15日・朝日新聞)
鉄拳制裁も珍しくなかった時代、関根は選手を信じ、淡々と振る舞うことで自覚を促した。衣笠は昭和45年10月19日から昭和62年に引退するまで、2215試合連続出場という当時の世界記録を樹立し、日本歴代7位タイの504本塁打を放った。
大洋・関根監督時代の1982年から1984年まで主軸を張った田代富雄は、関根の指導法をこう語っている。
〈くすぐり方がうまかった。選手を怒ったり、何かを押しつけたりせず、くすぐってその気にさせるんだよ。自分が選手を教える立場になったとき、最初に思い出したのも関根さんのやり方だったな〉(2013年9月発行 赤坂英一著『最後のクジラ 大洋ホエールズ 田代富雄の野球人生』講談社)