同じ1991年には、23歳の遠山昭治を出して、ロッテから33歳の高橋慶彦を獲得。しかし、高橋慶彦はオープン戦の始球式でタレントの山田雅人からデッドボールを食らったことが話題になったくらいで、打棒は影を潜めた。
「広島の黄金時代を築いた慶彦は田尾と似たようなケースで、たった1年でパからセに戻ってきた。中村勝広監督は慶彦の良い時のイメージを忘れられず、開幕から1番で使ったが、打てなかった。この頃は知名度の高い選手に飛びつく傾向がありました」
補強の失敗を重ねた1991年は2年連続の最下位に終わった。交換トレードのなかった1992年、亀山努、新庄剛志の“亀新フィーバー”、仲田幸司など投手陣の急成長によって2位に躍進する。中村監督は、あと1歩で優勝を逃した原因は打線にあると考え、オリックスから32歳の松永浩美に触手を伸ばし、3年連続8勝以上を挙げていた24歳の野田浩司とのトレードに踏み切った。しかし、野田は移籍1年目の1993年に17勝で最多勝に輝き、1995年からの連覇にも先発の柱として貢献。松永は度重なるケガで80試合出場に留まり、オフにFAを行使してダイエーに移籍してしまった。
「若手を出してベテランを獲るというトレードは博打に近い。仮に1年働いても、長い目でみれば損をする。それなのに、何度も繰り返すのは、移籍組のベテランの活躍もあって日本一になった1985年が脳裏に焼き付いていたのかもしれません。ただ、その年の1番・真弓は1979年に田淵幸一を放出した時のトレード相手で、阪神1年目は26歳だった。ミスター・タイガースを出す代わりに、伸び盛りの若手を獲ったことが1985年に生きたことを覚えておくべきだった」
◆星野監督の補強はそれまでと何が違ったのか
1993年、阪神は4位とBクラスに逆戻り。オリックスから1994年に石嶺和彦を、1995年に山沖之彦をFAで獲得したが、往年のような働きはできなかった。特に山沖は故障のため1試合も登板せず、自由契約となった。