ベテランの獲得は即効性があり、短期間で見れば効果はあった。1985年の日本一で味をしめたのか、阪神は翌年以降も30代の選手をトレードで獲得していく。
1986年、34歳の柏原純一は日本ハムから金銭トレードで移籍し、規定打席未満ながら打率3割1分3厘、17本塁打と相次ぐ故障に泣いた掛布の穴を埋めた。しかし、翌年からは低迷し、在籍3年で現役引退した。そして1987年には、優勝メンバーで26歳と脂の乗った吉竹春樹、23歳の左投手である前田耕司を西武に放出し、33歳の田尾安志を獲った。
「1981年から4年連続3割を打っていた田尾は1985年、中日から西武に移籍。パ・リーグの水に合わなかったのか、2年間不振を極めた。それでも、阪神のフロントはセ・リーグに戻れば変わると見込んだのでしょう。しかし、1年目の成績は打率2割2分1厘とさらに落ち込みました。田尾は翌年、3本のサヨナラ本塁打を放ち、規定打席不足ながら3割を打って復活しますが、37歳の1991年限りで引退。吉竹は堅実な守備を売りに黄金期の西武で準レギュラーとして1995年までプレーしました」
◆トレードで放出した野田はオリックスで最多勝
1987年は田尾だけでなく、打者も投手も全く調子が上がらず、勝率3割3分1厘で最下位に沈んだ。球団史上初の2年連続最下位に終わった1988年には31歳の金森永時が西武から、30歳の久保康生が近鉄から、1989年には31歳の住友一哉が近鉄から交換トレードで移籍。低迷にあえぐチームの中でそれなりの働きをしたように、この頃のトレード全てが失敗に終わったわけではない。しかし、1990年代に入ると補強の失敗がさらに目立ってくる。
「阪神は1989年5位、1990年6位と下位に定着してしまいます。打開策として1991年にダイエーと4対5のトレードをしたが、結果的に大損した。ダイエーに行った池田親興は抑えとして復活を果たし、大野久は盗塁王を獲得した。南海時代2ケタ勝利を挙げていた藤本修二や西川佳明は1勝も挙げず、わずか2年で阪神を去りました。池田は1985年の優勝以降、伸び悩んでいましたが、大野久は村山実監督が和田豊、中野佐資とともに“少年隊”と名付け、1989年には3割を打っていた。我慢して育てた選手を放出したように、球団に一貫性がなかった」