「監督になって初めての試合ですからよく覚えています。開幕戦は4月1日で寒い日でした。途中、ピッチャーライナーが島袋の脚に当たったのでマウンドに向かったんです。交代させようと思ったんですが、島袋は『大丈夫です』と言う。実際、控えにいいピッチャーがいたら代えてますよ。でも、目が死んでなかったのでそのまま続投させました。4年の鍵谷(陽平、現・巨人)もいましたけど、やっぱり大黒柱は島袋だったんです。監督をやって最初の試合が延長15回の試合でしょ。野球で勝つのってこんなに苦しいことなのかと改めて思いました。その後の登板も『絶対に行け』とは言わなかったし、『どうだ? 大丈夫か?』とも聞いたのですが……」
秋田は何をもって島袋に「大丈夫か?」と聞いたのだろうか。エースであるならば、監督から体調面やコンディションの是非を聞かれても、「行けます」と言うのが当たり前。でも指導者であるならば、目先の勝利にとらわれずに選手を守る立場であり、登板を回避させることもできたはずだ。起用法の判断を誤ったと言われても仕方がないだろう。
幸いにも島袋の肘は徐々に回復し、大学3年の春には完封も達成するなど、一時は完全復活をしたかに見えた。しかし大学3年秋のリーグ戦で突然「イップス」(精神的な原因などによりスポーツの動作に支障をきたし、突然自分の思い通りのプレー・動きができなくなる症状)を引き起こす。精密機械のようなコントロールは乱れまくり、全盛期の投球ができなくなってしまった。イップスになってしまった直接的な要因はわかっていない。だが、2年時の怪我により、少しずつ身体のバランスが崩れていったのではないかとも言われている。
島袋は大学卒業後の2014年、ドラフト5位でソフトバンクに入団。しかしそれからも苦しみは続く。
「プロになってからもコントロールの悪さは変わらなかったです。三軍からのスタートでした。プロになって心機一転という気持ちにはなれませんでした。一度投げることに不安を覚えてしまったせいで、引退するまで投げることに不安は消えなかったです」
島袋は三軍でのプロ入り初登板の対福岡工業大学で7回から登板し、いきなり8球連続ボール、結局1回を持たずに2/3で被安打3、四球3の6失点。大学や社会人クラブチーム相手に登板し続けるも、とにかくストライクが入らず自滅の日々が続く。それでもなんとか復調し、シーズン終盤に一軍で2試合に登板するが、2年目は一軍登板なし、3年目の夏には右肘遊離軟骨の手術を受け、4年目からは育成契約。2019年、5年目のオフに自由契約となった。プロ5年間で一軍登板はルーキーイヤーの2試合にとどまり、ほとんどが二軍、三軍生活だった。沖縄の宝は、無残にも壊れ、散ってしまった。
「島袋が高校からプロに入っていれば」と、何度も思ってしまう自分がいる。実際に活躍できたかどうかは誰にもわからないが、それでも「タラレバ」を考えてしまうのは、あの10年前の甲子園での投球が、それほど鮮烈でインパクトがあったからだ。