彼の部下にも海外に出てヒット製品を手掛けた技術者がいたという。その方にとっては生活のためだがリベンジマッチの意味もあったのかもしれない。それにしても、これが理研クラスの研究者で、時間は掛かるが世界を覆すような研究をしていた研究者だったら、と想像すると恐ろしい。
「私の話は小さな話かもしれませんが、そういうことをするから他国に技術が流れるんですよ。そんなことを国や(日本の)企業が30年間繰り返した結果が、いまの日本です」
4月6日、日本の半導体を中心とした基幹インフラの供給、先端技術、機微技術を保護する経済安全保障推進法案が与野党賛成多数で可決された。この件に右も左も関係ないという点で危機感は感じられるが、案の定「事業者の事業活動における自主性を尊重」という横槍によるエクスキューズがついてしまった。
「待遇が悪いのですから流出は止まりませんよ。ずっとそうなのですから。大手だって技術部門の待遇は酷いものです。事務方にすれば『好きなことやってるんだからいいだろ』って感覚です。それで逃げられて、裏切られたとか、何をいまさらですよ」
彼にすればまさしく「何をいまさら」なのだろう。「今だけ金だけ自分だけ」が跋扈して久しい日本、個々人はそれで構わないが、企業や研究機関、ましてや政府がそれでは衰退もやむなし、いまや日本の技術革新力は13位(WIPO・2021年)、科学技術指標によれば主要論文数は10位(文部科学省・2021年)、競争力ランキングに至っては31位(IMD・2021年)である。かつて世界の科学技術を牽引してきた日本が、GAFAMに代表されるような新世代をリードする先端・先進技術どころか旧世代の技術すら世界から取り残されようとしている。日本の宝である技術や研究を売り渡し、冷遇し続けた末路と言われても仕方がない。そもそも経済安全保障を謳いながら理研の600人を雇い止めにしようとしている。以前、拙筆『「理研600人リストラ」に中国人ITエンジニアは「不思議です」と繰り返した』でも書いたが、まったく意味不明である。
「現役時代から意味不明でしたよ、経営陣はもちろん、営業や事務方が何をしたいのか私たち技術屋にはさっぱりわかりませんでした。理研の研究者も同じじゃないですかね。それでうまくいってるなら私たちが悪いのでしょうが、傾くばかりだったのですから。ほんと、何がしたかったんでしょうね」
韓非子の「千丈之堤以螻蟻之穴潰」(千丈の堤も螻蟻の穴に潰ゆ)ではないが、彼のような技術者はもちろん研究者、クリエイターといった個々の現場を軽視し続ける愚行、その積み重ねもまた「失われた30年」、日本衰退の一因である。資源大国でも食料輸出大国でもない日本が頭脳を冷遇し、放棄する。それも現在進行形である。本当に何をしたいのか、さっぱりわからない。
【プロフィール】
日野百草(ひの・ひゃくそう)日本ペンクラブ会員。出版社勤務を経てフリーランス。社会問題、社会倫理のルポルタージュを手掛ける。