正直言って、私も全部の神社の祭神と所在地はわからなかった。とくに小御門神社についてはまったく知らなかった。祭神は花山院師賢(1301~1332)、本姓は藤原で後醍醐天皇の側近であり、身代わりを務めたこともある。鎌倉幕府に捕まって下総国(千葉県北部)に流罪にされ、幕府滅亡の前年に病死した。後醍醐はその功績を賞して太政大臣の職を追贈した。社殿は千葉県成田市名古屋にある。
私は愛知県名古屋市の生まれだが、下総国に古くから名古屋という地名があることを今回初めて知った次第である。念のためだが、下総国というのは「千葉県南部」の間違いでは無い。上下は南北を示すのでは無く、当時の交通ルートで都から近い方を「上」とするからである。古代においては紀伊半島から房総半島に向かって流れる黒潮に乗って、船で「千葉県地方」に行った。最初の上陸地は安房国であり、その先が上総国つまり千葉県南部、そして下総国になるからである。
では改めて、この社説に列挙されている神社の祭神と所在地を簡単に述べておく。藤島神社は新田義貞を祀った神社で、福井県福井市にある。名和神社は名和長年とその一族で、鳥取県西伯郡大山町。阿部野神社は北畠親房、顕家親子を祀っており、大阪市阿倍野区にある。結城神社は新田義貞とともに鎌倉を陥落させた武将結城宗広が祭神で、陣没地とされる三重県津市にある。菊池神社は南朝の九州制圧に大功のあった菊池武時と子の武重、武光で、熊本県菊池市。四条畷神社は小楠公とも呼ばれる楠木正成の嫡男正行で、大阪府四條畷市にある。言うまでも無く大楠公こと楠木正成を祀った湊川神社は兵庫県神戸市にあり、後醍醐天皇が祭神の吉野神宮は奈良県吉野郡吉野町にある。これに護良親王を祀った鎌倉宮(神奈川県鎌倉市)や、懐良親王を祀った八代宮(熊本県八代市)などを加えた合計十五社を「建武中興十五社」と呼ぶ。
前にも述べたように、現在は「建武の新政」と教科書にある後醍醐天皇の政治は、かつて「建武の中興」と呼ばれていた。日本は天皇が直接統治する国なのに、関白とか将軍とかいう連中が邪魔をしていた。それを一時的に復活した名君が後醍醐天皇である、というのが明治の常識であり大日本帝国の国是でもあった。
國史教育責任者の「反論」
しかし、これは歴史的事実とは言えない。むしろ後醍醐の旺盛な我欲によって戦乱の世が始まった、というのが私の歴史認識で、この時代を記した『太平記』(正確にはその前半)が戦乱また戦乱の話なのに、なぜ「太平記」(現代語に訳せば「平和物語」)というタイトルなのかと言えば、臨終にあたっての後醍醐の最後の叫びが「朝敵尊氏が一類を亡ぼして四海を泰平ならしめんと思ふこの一事ばかりなり」(足利尊氏一味を亡ぼしこの世を平和にする、それだけが私の望みだった)という、まったく自己反省のカケラも無い無責任な言葉だったからであり、作者は皮肉を込めて「後醍醐物語」のタイトルを「太平記」としたのだと考えている。
これもかつて述べたことだが、朱子学の本場である中国の考え方で言えば、「徳に欠けた君主」である後醍醐は、たとえ忠臣の権化である楠木正成がいかに奮闘努力して支えようとしても必ず政権を失い、その直系の子孫も絶える。しかし、それは決して楠木正成の否定では無い。むしろ、名君では無い君主に仕えてこそ忠臣なのである。名君ならば、尽くした忠義に対して必ず報いてくれる。
逆に言えば、家臣はだからこそ仕えているのかもしれない。わかりやすく言えば、会社が好調のときは、働けば働くほど地位も報酬も上がるから逃げ出す社員はいない。問題は、能力の無い経営者が就任して会社が一気に倒産寸前になったときである。多くの社員は会社を見捨てて去るだろう。それをしないのが本当の意味の愛社精神に富んだ人間である。つまり、本当にその人間が心から会社を愛しているかどうかは会社が好調のときはわからない。会社が左前になってこそ初めてわかる。
主君に対する忠義も同じことだ。だから、中国の「忠臣伝」に出てくる忠臣の主君は完璧な名君では無い。むしろ残虐だったり非情だったり能力が欠けていたりする。そんな主君を見捨てないのが本当の忠義であるというのが中国の考え方で、これは中国だけでは無く世界のあらゆるところで通用する論理的な考え方だろう。