大阪戦争は1975年、山口組の佐々木道雄が率いる佐々木組系組員が大阪・豊中市内の松田組系の賭場を荒らしたことに始まる山口組vs松田組の抗争である。
途中、中だるみの時期を挟んで前・後期に分かれるが、1978年、松田組に列なる大日本正義団幹部・鳴海清が京都のクラブ『ベラミ』で田岡に銃弾を放ったことで山口組による猛烈な報復攻撃が始まる。
鳴海は関西二十日会加盟の忠成会(神戸)などを頼り、しばらく潜伏していたが、2か月後、彼の腐乱した死体が六甲山の瑞宝寺谷で発見された。
ガムテープでぐるぐる巻きにされた死体にはウジがわき、顔は白骨化していた。指先は崩れて指紋採取は不可能だったが、ただ背中に天女の刺青らしきものが見えた。解剖すると鳴海の胃からは菜っ葉と飯粒のほかに出ず、遺体の損傷ぶりからも鳴海への虐待、リンチが想像された。
鳴海を殺したのは、鳴海を匿った忠成会だったのか、それとも山口組だったのか。兵庫県警は忠成会の犯行を疑ったが、これは最高裁まで争ったあげく、犯人不明のまま時効になった。
山健は松田組攻撃に全身全霊を懸けたが、肝臓を病んでいた。1981年7月、田岡が急性心不全で死んで7か月後、山健も後を追うように肝硬変で急死した。田岡の死後、次の山口組四代目組長は山健と、ほぼ決まっていたが、武運つたなく組長就任直前に息絶えた。