石原裕次郎の最新ニュース/4ページ

【石原裕次郎】に関するニュースを集めたページです。

ずっとフリーの十朱幸代「私ほどスターと共演した女優いない」
ずっとフリーの十朱幸代「私ほどスターと共演した女優いない」
 日本の帯ドラマの基礎を固めたといわれるドラマ『バス通り裏』で女優デビューを飾り、今年で60年。十朱幸代(76才)がその人生を振り返り記した自伝『愛し続ける私』(集英社)が話題になっている。華やかな世界で活躍し続ける彼女の素顔に迫る。 女優を志したのは父の影響が大きい。父・十朱久雄は東京・日本橋に江戸時代から続く老舗の麻問屋「小倉貿易」を営む家に生まれながら、家業を継がずに俳優になった。その父の仕事先についていくうちに、テレビ放送が始まって間もないNHKの連続ドラマ『バス通り裏』の主演・元子役に抜擢された。当時は生放送だったので、入学したばかりの高校を早退してスタジオ入りする日々になった。 それ以前に銀座でスカウトされ、子役モデルとして少女雑誌のグラビアを飾っていたので、カメラには慣れていた。「だけど、女優としての勉強は何もしていない、素養もない。でも“そのままがいい”と言われて、遊びに行っているようなものでした(笑い)」(十朱・以下同) この作品での素直な演技が認められ、巨匠・木下惠介監督の映画『惜春鳥』に起用され、さらには舞台へと活躍の場が広がる。「でも、演じてみて力のなさに自分でも呆れました。特に舞台では歩く姿さえサマにならない。役をいただくたびに慌てて日本舞踊を習い、お茶を習い、三味線を習い…、そうやって、所作や決まり事を身につけたんです」 独特の舞台化粧にも悩んだ。「舞台メイクは自分でするんですけど、普通は弟子入り先や、所属する劇団などで教えてもらうんです。でも、私はフリーなので、誰にも干渉されない代わりに教えてももらえない。眉一つ描けないから、毎回、ヘンな顔になってしまって(笑い)」 共演の大女優・山田五十鈴が見るに見かねて、照明も考慮し、客席の最後尾からもきちんと見える「顔」の作り方を教えてくれたという。「ずっとフリーだったから、映画会社の枠にしばられることなく、私ほどたくさんのスターさんと共演してきた女優はいないんじゃないかしら。本当に恵まれてきたと思います」 人気絶頂だった頃の中村錦之助(のちの萬屋錦之介)、高倉健、渥美清、仲代達矢、緒形拳、勝新太郎、津川雅彦、舞台でも森繁久彌や長谷川一夫、島田正吾など日本の芸能史に燦然と輝く俳優たちと共演してきた。「私、当時の女性としては背が高い方で、162cmを超えていたんです。思いっきり高いハイヒールを履いても、気を使わないでいられたのは、石原裕次郎さん、小林旭さん、高倉さんくらい。でも、年とともに縮んじゃって、いやだわ(笑い)。脊柱が縮むんですって」 いつしか清純派から、汚れ役もできる演技派に変貌を遂げた。芸を教えられ、演技を語り合った俳優もそのほとんどがすでに世を去った。同じ時代を生きた女優たちは結婚し、引退した人も少なくない。「仕事がつらいと思ったことも、やめようと思ったこともありません。恋愛した時、迷いはあったけど、私には女優以外の生き方はないと思って。失恋の苦しみや悲しみは、いつしか演技に生かしてきたんです。人と競うという気持ちもないし、器用でもない。でも、仕事に対する情熱だけは捨てられなかったんです」※女性セブン2018年12月13日号
2019.03.11 15:35
30年ほど病と闘っている渡。引退決意か
リハビリ中の渡哲也 亡き弟との絆と闘病支える一人息子
 昨年9月から一向に姿を見せない渡哲也(76才)。石原プロが集結した、今年7月に営まれた石原裕次郎さんの三十二回忌法要も欠席だった。今年9月では毎年恒例となっている宝酒造『松竹梅』のCM撮影を行ったが、昨年と異なり撮影後のスポーツ紙の取材はなかったという。 渡は1991年に直腸がんが見つかり、手術後、人工肛門をつけることを余儀なくされた。その後も肺気腫やぜんそくといった呼吸器系の持病に苦しめられてきた。さらに、2015年6月には急性心筋梗塞で倒れ、緊急手術をしている。「実際には外出時も酸素吸入器を外せない状態です。今年も壮絶な闘病の中でのCM撮影だったそうです」(広告関係者) 最近は近所を歩くこともままならず、自宅療養が続いているようだ。 これまで渡は、体調が心配される中でもたびたび復帰を果たしてきた。昨年4月には、周囲が「体力的に大丈夫なのか」と心配する中、石原プロの「相談取締役」として経営陣に復帰した。1か月前の3月に実弟である渡瀬恒彦さん(享年72)が亡くなったことが理由の1つだったという。「渡瀬さんは2015年秋に胆のうがんが見つかりましたが、がんは小康状態。亡くなったきっかけは『肺気腫』でした。奇しくも、渡さんも同じ病気で苦しみ、兄弟の母・雅子さんもかつて肺炎で亡くなっている。実は、それまでは滅多にしなかったのに、闘病が始まってからお互いの家を行き来するなど、頻繁に連絡を取り合っていました」(渡瀬さんを知る関係者) 渡瀬さんはスペシャルドラマ『そして誰もいなくなった』(テレビ朝日系)で、末期の肺がんに侵された狂気の犯人役を演じきり、その放送の11日前に亡くなった。「渡さんは、渡瀬さんと“どちらが先に逝っても、派手なお別れ会はやめておこう”と約束したそうです。また、渡瀬さんが死の直前まで次の撮影を考えていたことに、“同じ役者としての絆を感じた”と深い感銘を漏らしていたそうです」(前出・関係者) 渡が仕事への情熱を燃やし続けるのには、さらに「もう1つの理由」があるという。渡は1971年に俊子夫人とハワイで2人だけで結婚式を挙げ、その後、息子が誕生した。「息子さんは小学校から両親と同じ青山学院で、大学卒業後は芸能界には進まず、大手ゼネコンに就職したと聞いています。渡さんの病状が心配だからか、4年ほど前に、渡さんの家の近くに引っ越してきました」(近隣住民) 息子が住むのは、実家から歩いて2分程度のところにある一戸建てだという。「2014年に渡さんは自宅を全面バリアフリーにリフォームしました。工事に際して渡さんは近くの一戸建てを“仮住まい”にしていましたが、そのリフォームを仕切っていたのが息子さんでした。工事が終わると渡さんは元の自宅に戻りましたが、仮住まいにしていた家を建てかえて、そのまま彼が住んでいるそうです」(渡の知人) 親孝行な一人息子に闘病を支えられている渡。だが、周囲にはこんなことを漏らしているという。「息子さんはもう40代中盤になっていますが、まだ結婚していないようなんです。だから渡さんは周囲に“早く嫁さんをもらってほしい”“孫を見たい”とよくこぼしているそうです」(芸能関係者) 2015年の国勢調査によると、40~44才の男性の未婚率は29.3%で、45~49才男性でも未婚率は25.2%にのぼる。40代男性の4人に1人が結婚していないのが現状だ。渡のように、老後になっても“未婚の子供”に頭を悩ませる親は少なくない。「渡さんは息子さんのことを大事に育ててきた。一般社会で生きることを選んだ彼に迷惑をかけまいと、一切、息子さんの情報は明かしてこなかった。彼が結婚しない理由はわかりませんけど、いちばんの親孝行は孫の顔を見せることですからね。渡さんも“孫を見るまでは”という気持ちで頑張っているんだと思います」(前出・渡の知人) 誰にも泣き言を言わず、渡は厳しいリハビリを続ける。※女性セブン2018年11月15日号
2019.03.11 14:25
『太陽にほえろ!』脚本家が身元不明の遺体で発見された事情
『太陽にほえろ!』脚本家が身元不明の遺体で発見された事情
 その“訃報”は、新聞の片隅で報じられていた。〈秋田県仙北市の脚本家、高階航(本名、高階茂嘉)さん(76)方から身元不明の遺体が見つかっていたことが11日、秋田県警関係者への取材で分かった。高階さんは1人暮らしとみられ、連絡が取れていない〉(産経新聞10月11日付大阪夕刊) 高階氏は高校卒業後に永六輔に弟子入りし、ドラマ『太陽にほえろ!』、『桃太郎侍』やアニメ『ルパン三世』などの大ヒット作を手掛けた脚本家だ。 高階氏は30年ほど前に離婚、子供たちとも離れ、母親の介護のために1989年に故郷の秋田に戻ったという。“Uターン後”の高階氏と付き合いが深かった秋田在住の友人男性が話す。「高階先生が話すのは東京で仕事していた時のことばかり。石原裕次郎とメシを食ったこととか、俺らには縁のないスターたちとの思い出だったよ。一昨年、先生が入院したときに『何かあったときにはどこに連絡したらいいんですか』と聞いたらAさんという人を挙げたけど、調べたらもう亡くなっていた。でも先生は他の連絡先を教えてくれなくてね。思えば自分や家族のことは話さない人だった」 秋田に戻ったばかりの頃はよく自転車で外出し、周囲と挨拶を交わしていた高階氏だったが、いつしか知人たちと距離を置くようになっていたという。「最近では玄関で大声で呼んでも返事がなく、電話にも出ない。それでこっちももういいやとなってしまったけど、別の友人によると実は耳が遠くなってたみたい。手紙を出すと返事は来ていたんだよ……」(同前) 10月10日、仕事を依頼しようと高階氏の自宅を訪れた会社員の通報によって、「身元不明の遺体」が発見された。その際、立ち会った母方の叔父(84)はこう話す。「1か月前に“新聞が何日分も溜まったままだ”と警察から連絡が来た。家に入ったら布団の中でうつ伏せになっていて、大声で呼んでもうんともすんとも言わなかった。今回また警察から様子がおかしいと連絡があって、行ったら電気が止まっていて部屋は暗くてな。警官が確認したら布団の中で死んでいたって。(離婚した妻との間に)2人の息子がいるけれど連絡先も知らねぇ。兄弟もいないし、俺たちも歳で何もできないから葬儀もやらねぇ。あとは警察に任せることにしたよ」 仙北署によると、発見された遺体は死後1週間以上経過していたとみられ、損傷が激しく、身元確認すらできない状態だという。「発見された状況からすると住まれていた方だと思われますが、間違いがあってはいけないので捜査中です。このまま身元不明の遺体となった場合は、一般的には行政が埋葬します。火葬して、自治体が管理する無縁仏に入ることになります。もし本人確認ができた場合も、遺族に引き取る意思がないと自治体で埋葬することになります」(副署長) 華々しい経歴とはあまりに対照的な最期だったが、かつて交遊した大スターたちがあの世で温かく迎えてくれることを祈りたい。※週刊ポスト2018年11月2日号
2019.03.11 15:37
『元気が出るテレビ』は2人の「天才」が組んで実現した
『太陽にほえろ!』 成功を生んだ「殉職」「あだ名」「恋愛」
 1957年に誕生した日本の刑事ドラマの中で燦然と輝く作品が、1972年から1986年まで放送された『太陽にほえろ!』(日本テレビ系・1972年~1986年)。最高視聴率が40%を超え、日本テレビにとって聖域である巨人戦のナイター中継でさえも、金曜の20時枠は回避されていた。 昭和の大スター・石原裕次郎が初めて連続ドラマに挑むという話題性もあったが、人気が爆発したのは「新人刑事の成長と殉職」に焦点を当てたことだろう。初代がマカロニ(萩原健一)、2代目がジーパン(松田優作)、3代目がテキサス(勝野洋)と、新人が交代するたびに国民的ドラマに発展していった。 本作が従来の刑事ドラマと一線を画したのは、「事件と犯人」ではなく、七曲署の捜査一係の面々にスポットを当てたこと。そのため、一人ひとりにフルネームと性格設定、さらにはニックネームを与え、劇中でレギュラーの刑事が出ていない時間が基本的に存在しなかった。 若手刑事たちの青春アクションドラマの一面もあり、恋愛の対象として「女刑事」が存在した。元鬼刑事の父に似て負けず嫌い、ジーパンと婚約しながら愛する人を失ったシンコこと内田伸子(関根恵子)や、ロッキー(木之元亮)との間に2人の子をもうけたマミーこと岩城令子(長谷直美)は、貴重な役回りを担ったのだ。◆取材・文/石田伸也※週刊ポスト2018年10月26日号
2019.03.11 15:37
松竹から吉本に流れが変わった
『太陽にほえろ!』 浅野ゆう子が放った裕次郎仰天の一言
 現在、テレビ界では“刑事モノ”が大人気。近年の刑事ドラマでは女性の活躍が目立つが、黎明期での扱いは異なっていた。1961年に『七人の刑事』(TBS系)と、『特別機動捜査隊』(NETテレビ=現・テレビ朝日系)が始まり、お茶の間の人気を博したが、捜査一課は男性ばかりだった。1972年から1986年まで放送された『太陽にほえろ!』で初めて本格的な女性刑事が誕生する。プロデューサーを務めた岡田晋吉氏が振り返る。「刑事ドラマを視聴者にとり身近なものにしたかった。そして長く続けるのが最大の目標だったんですが、出演者が男ばかりだと女性視聴者の興味を引かない。でも当時は現実の警察にも女性刑事は存在しなかったので、少年課の役として登場させ、しばらくしてから女性刑事に昇格させました。大映から(番組制作に関わった)東宝に移籍した関根恵子(現・高橋惠子)さんにお願いしました」 関根演じる内田伸子刑事は、やがて松田優作演じるジーパン刑事と恋に落ちて婚約に至る。その矢先、ジーパンは凶弾に倒れた。111話「ジーパン・シンコその愛と死」(1974年放送)は刑事ドラマ史に残る名エピソードだ。「優作を幸せの絶頂で殉職させれば感動が強くなると思ったんです」(岡田氏)『太陽にほえろ!』の大ヒットで、刑事ドラマブームが再熱する。プライム帯で週11本もの刑事ドラマがあった1975年5月、『Gメン‘75』(TBS系・1975年~1982年)が始まった。映画監督の樋口尚文氏が話す。「藤田美保子さん演じる響圭子は、素朴で庶民的なシンコと異なり、アクションシーンも見事にこなし、国際刑事警察機構にも顔が利くという実務にも長けた刑事だった」 藤田のようなハードボイルドな女性刑事も台頭しつつあったとはいえ、主流は『太陽にほえろ!』でお茶汲み係を務めた青木英美や浅野ゆう子のようなマスコット的な役割だった。「浅野さんは当時まだ中学生。最初の撮影の時、石原裕次郎さんの隣に立ち、『私のほうが脚が長い』と言ったんです。石原さんもビックリしていましたね(笑い)」(岡田氏) 1977年開始の『特捜最前線』では、関谷ますみが清涼剤だった。「画面上だけでなく、男ばかりの撮影に紅一点がいると、雰囲気が和らぐんです。現場のチームワークは視聴者にも伝わりますし、大事な役割です」(樋口氏)◆岡田晋吉:1935年生まれ。1957年に日本テレビに入社し、『青春とはなんだ』『太陽にほえろ!』『俺たちの度』『大都会』など数多くのヒットドラマを手掛ける。現在は川喜多記念映画文化財団非常勤理事を務める。◆取材・文/岡野誠※週刊ポスト2018年10月26日号
2019.03.11 15:37
◇二宮和也 大学病院で緊急検査していた
二宮和也 平成のスター・木村拓哉と平成の内に共演したかった
 ファンの前では初めての木村拓哉(45才)と二宮和也(35才)との2ショット公開となった映画『検察側の罪人』の完成披露試写会(8月6日)。ハグ、肩の抱き寄せなど、ファンが固唾をのんだ“奇跡のイベント”だったが、本誌・女性セブンは普段は見ることができない楽屋に潜入し、本番前の二宮に話を聞いた。 木村拓哉が演じるエリート検事・最上と対峙する若手検事・沖野役に挑んだ二宮。被疑者を取り調べるシーンでは、思わず息をのむほどの迫真の演技をみせた。「あのシーンは被疑者をずっと罵倒しなければいけないので大変でした。監修の検事の先生に、ここまでやってもいいんですか?って聞いたら、実際ならクビですって言われました(苦笑)。でも、ドキュメンタリー作品ではないから、作品のスパイスとして必要だし、創りものとしてやろうという話になったんです。 実はこのシーンを撮る前に、木村くんから“自由にやってきていいよ。楽しみにしてる”ってメールをもらったんです。木村くんは自分が撮影現場にいない日のスケジュールも把握して、考えてくださっている。さすがだなって思いました」 役者の先輩であり、事務所の先輩でもある木村とは初共演。天皇陛下が退位されて、「平成」が終わるという発表があった頃から、木村との共演を望んでいたという。「“平成のスター”って誰だろうと考えたときに、やっぱりSMAPさんだと思ったんです。昭和の大スター・石原裕次郎さんのように語り継がれる存在が木村くんだと思うので、平成のスターと平成のうちに共演したかった。 ぼくはぎりぎり滑り込めたからラッキーだなと思います。新しい元号になった時に、後輩と飲みながら木村くんと共演したことを自慢したいですね(笑い)」※女性セブン2018年9月6日号
2019.03.11 15:39
V6井ノ原も憧れる田原俊彦、本邦初公開の大記録とは
V6井ノ原も憧れる田原俊彦、本邦初公開の大記録とは
 V6の井ノ原快彦も田原俊彦への憧れを隠せないようだ。7月21日放送のラジオ番組『V6 Next Generation』(JFM)で坂本昌行、長野博、井ノ原が事務所の大先輩になる田原俊彦について語った。井ノ原は田原のことを「西部警察で言えば石原裕次郎さんみたいな感じ」とたとえる。  田原に憧れてジャニーズ事務所に履歴書を送ったという井ノ原は近年、トシちゃんとホームセンターで遭遇したことを明かし、「握手したとき、感動した。長い待ち合わせだった……と思った。だって、ジュニアで会った時、話なんて出来なかったでしょ?」と話すと、長野が「できない、できない。ありえない」と実感を込めて振り返った。 井ノ原が「『イノッチ!』っていわれたんだよ! 君、名前なんて言うの?じゃなくて、イノッチっていわれたのが。イノッチって知ってるんだ……」と興奮気味に話すと、坂本は「だって、(自分は)未だに呼ばれたことないもん」と羨ましそうに呟いた。 7月31日放送の『踊る!さんま御殿!!』(日本テレビ系)では、〈超大物芸能人の2世が大集合〉というテーマで、田原俊彦の娘である女優の田原可南子が出演。普段の父親の振る舞いや教育方針を語った。可南子が「(父が)赤いポルシェを買った」という話をすると、明石家さんまは「大スターの生活やな~」と感心した。 1990年代生まれ以降の世代からすると、1980年代のトップアイドルだった田原俊彦の凄さは伝わりづらいかもしれない。『田原俊彦論 芸能界アイドル戦記1979-2018』(青弓社)の著者である芸能研究家・岡野誠氏はまず、田原の持つ有名な大記録を挙げる。「当時の人気歌番組『ザ・ベストテン』(TBS系)の最多ランクイン数は田原俊彦の247回。ベストテンのスタジオには、田原専用の青いソファーが作られたほどです。番組終了後の1990年代以降、歌のヒットを現す指標は主にオリコンになりましたが、1980年代は高視聴率番組『ザ・ベストテン』のランキングが話題の中心でしたから、その中での1位はまさに1980年代のナンバーワンといっていい」 それまでの歌番組はプロデューサーが主導して出演者を選んでいたが、1978年開始の『ザ・ベストテン』は視聴者の意向を反映するため、レコード売り上げ、ハガキリクエスト、ラジオチャート、有線放送の4部門を元にコンピューターで客観的に順位を弾き出した。総合チャートのため、各部門で高順位につけないとランクインできなかったのである。「1980年代前半の男性アイドル界はまだ今のように“ジャニーズ1強”ではなく、他事務所も沖田浩之や竹本孝之などの有望株を輩出していた。しかし、彼らは田原俊彦と近藤真彦の人気を超えられなかった。野村義男を含めた『たのきんトリオ』が、今のジャニーズ事務所の礎を築いた」(同前) 今まで『ザ・ベストテン』のランクイン記録は公式本などで明らかになっていたが、岡野氏は『田原俊彦論』の中で、初公開と思われる“歌手の年別ランクイン数”を調べた。それにより、ある記録に気付いたという。「最多ランクインの他に、田原俊彦がもう1つの記録保持者であることも判明しました。番組放送12年のうち、10年間(1980~1989年)ランクイン。これは近藤真彦と並んでトップです。3位は9年のサザンオールスターズ。4位タイで西城秀樹、五木ひろし、松田聖子、薬師丸ひろ子、中森明菜、小泉今日子の6人が並んでいます。薬師丸は通算ランクイン回数では30位タイ(55回。1986、1988年は各1回のみ)ですが、年数という単位で見ると順位が一気に上がります」 1970年代後半に低迷したジャニーズ事務所を救った田原と近藤がいかに息の長いアイドルだったかよくわかるデータだ。 岡野氏によれば、田原は1989年1月26日放送の『ザ・ベストテン』で司会の黒柳徹子、渡辺正行から最多ランクイン記録について触れられると、こう話したという。〈田原:ただ単にタイムリーだったっていうか、長いんですよね。渡辺:名前をトシちゃんとかお呼びできませんね。田原先生、田原さま。業界では田原亭なんてのもありますけどもね。黒柳:トウちゃんとか。トシちゃんだから。田原:なんで(笑)黒柳:あなたは私たちからなんて呼ばれれば?渡辺:なんてお呼びしたらいいですかね。田原:そうですね、僕は別になんでもいいと思ってるんですけどね。呼びやすいように呼んで頂ければ。まあ一応、とりあえずは(カメラ目線で)『彦さま』みたいなのがいいですね。黒柳:大久保彦左衛門(笑)田原:(手を叩いて)パン! 彦さま! みたいな。ウソウソ、ジョークです(笑)。〉『ザ・ベストテン』は1978年から1989年まで放送されたため、1980年デビューの田原は他の歌手と比べて、たしかに有利な面もあったかもしれない。しかし、アイドルが2~3年も人気を保てば大成功だった時代に、10年以上もヒット曲を出し続けたことは異例中の異例。『ザ・ベストテン』の最多ランクイン、最多ランクイン年数に輝いた田原俊彦の偉業が色褪せることはないだろう。
2019.03.11 15:40
マツコ・デラックスが大衆に受け入れられる本当の理由
マツコ・デラックスが大衆に受け入れられる本当の理由
 現在、『月曜から夜ふかし』(日本テレビ系)、『マツコの知らない世界』(TBS系)、『5時に夢中!』(TOKYO MX)など8本のテレビ番組レギュラーを持ち、“視聴率男”の異名を取るマツコ・デラックス。エム・データ調べの『2017年テレビCMタレントランキング』によれば、昨年の年間CM会社数は8社。女性部門で石原さとみ、北川景子、桐谷美玲、白石麻衣(乃木坂46)、新川優愛と同じ数字になる。 数十年前からテレビ界では、カルーセル麻紀やおすぎとピーコなどいわゆる“おネエタレント”が活躍していた。しかし、マツコのようにゴールデン帯でレギュラーの冠番組を持ち、恒常的にCMに出続けるのは異例中の異例だ。 なぜ、現代の日本社会に受け入れられているのか。社会学者で、『マツコの何が“デラックス”か?』(朝日新聞出版)の著者である太田省一氏に話を聞いた。──なぜ、マツコについて書こうと思ったのでしょうか?「大衆に支持されているきわめてメジャーなタレントなのに、ゲイで女装家という社会的にはマイノリティと見なされる属性を持っている。その意味では、矛盾しているようにも見える。そんなマツコ・デラックスがなぜ、今の時代にこれほどの人気者になったのか。それを探り当てたいと思いました」(太田氏。以下「」内同)──昭和の頃は、幸福感溢れているように見える人が人気者だったように思います。「戦後まもなくの美空ひばり、高度成長期の石原裕次郎、1980年代の松田聖子や田原俊彦など、本人たちの実人生には色々とあったかもしれないけど、ブラウン管やスクリーンのこちら側から憧れを抱く存在でした。 でも、マツコはギャグっぽいとはいえ、『一度も幸福を感じたことない』とよく言います。視聴者は、マツコが幸福に見えるから憧れるのではない。むしろ幸福じゃないことをちゃんとさらけ出すところに共感している」──マツコを受け入れる社会の側の変化も大きいのでしょうか?「生き方の見えづらい時代になっているという要素も大きい。かつてのように良い大学、良い会社に入れば一生安泰だとか、適齢期に結婚すれば幸福になれるとかは思えなくなっている。『それが本当に幸せなの?』と疑問を持ち始めている。 日本も、多様性を認める社会に徐々に変化しつつある。数十年前なら会社員や専業主婦が多数派で、男性はずっと同じ会社に勤め、女性は家庭を守るという生き方が当たり前と思われていた。今もそういう部分は残っていますが、「多数派/少数派」「男性/女性」というようなカテゴリー分け自体が徐々に崩れていっている。 突き詰めれば、1人1人みんな違う。いろんな考え方や生き方があって当然だし、尊重しようという時代の流れがある。もちろん、LGBTに対する差別はまだ残っている。その中で、マツコ・デラックスは『自分はどう生きればいいのか』という苦悩をいろんな番組の端々でポロッと漏らしつつ、自分自身に向き合おうとしています。 今は承認欲求を満たそうとして、ツイッターやインスタグラムなどで自分を“盛って”見せようとする人も少なくない。常に人によく見てもらおう、よく見せようとしている。ただ、そういう生き方は疲れるもの。言い換えれば、いまの日本は疲労感の抜けない社会になっています。マツコは『そこからいち早く抜け出したほうがいいよ』と言ってくれている」──なぜ、マツコは“盛らずに”自分をさらけ出せるのでしょうか?「マツコは、『肥満』『ゲイ』『女装』への偏見が強い時代に育った。子どもの頃、鴨川シーワールドでトドのショーを見た時、マツコは『これは私だ』と感じた、というエピソードがあります。トドは単なる見世物になっている。芸でも何でもない、ただ飛び込むだけでも、喜んでくれる人がいる。自分は太っていることに悩んでいたけど、それで喜んでくれる人がいたら自分はいいじゃないかと。 また人前での女装の始まりは、小学校の頃の学芸会で中森明菜の歌を女装して歌ったことでした。そのように、パフォーマンスをすることで偏見を跳ね返し、自分だけの居場所を作ってきた」──マツコを「毒舌」と表現する人たちもいますが、そんな一言で片付けられるような簡単な人物像ではないんですね。「マツコの基本的な信念は、自分をごまかさずに生きること。たとえば、『田園都市線沿線に住もうとしている人は本当に幸せなの?』と疑問を投げ掛けています。電車の混雑率も高いのに、イメージにばかり惹かれてたまプラーザや二子玉川に住もうとしているのはどういうことなんだと。真実を突いていますよね。それが『毒舌』と評される場合もありますが、本質的には単なる悪口ではありません。一方で、自分も若い頃は『西武』での買い物にステータスを感じていた。そのような過去も、隠さずにしゃべる。 マツコは嘘をつかず、正直に話す。それが、共感を得ている大きな理由だと思います。田園都市線の話にしても、私たちはそう思ったとしてもなかなか言えないですよね。それに、かつて自分も同じようなことをしていたと正直に告白する。人間って、自分の弱みを隠したくなるじゃないですか。全部さらけ出せるのが、マツコの凄さだと思います。本人は、毒舌とはあまり思ってないんじゃないですか。視聴者は快感と思っているし、共感が大きいのではないでしょうか」──なぜ、フラットな姿勢を保てるのでしょうか?「マツコには『最後は1人』という感覚があると思う。結婚もせず、子どもも持たないで1人で生きていく。1人は怖いことでもあるけど、その孤独を受け入れて生きていく覚悟がある。そこに、マツコの凄味があります。みんな、本当は孤独だということを忘れようとする。それを真正面から見据えて生きていくところに、マツコのオリジナリティがあり、社会の深いところで共感を得ているのだと思います」
2019.03.11 15:40
メキシコ戦
サッカー日本代表、メキシコ五輪「引き分け狙い」の真相
 サッカーW杯ロシア大会は、フランスの20年ぶりの優勝で幕を閉じた。開幕前、3戦全敗が予想されていた日本はグループリーグを勝ち上がり、決勝トーナメント1回戦でもベルギーを後半途中まで2対0とリード。初のベスト8進出を期待されたが、74分に同点に追い付かれると後半ロスタイムに勝ち越され、2対3で敗れた。 グループリーグ第3戦のポーランド戦では0対1と負けていながらも、後半ボール回しで時間稼ぎをして決勝トーナメント進出を狙ったことで、海外メディアから批判の声も出ていた。日本では「ドーハの悲劇の教訓が生きた」という声もあれば、「メキシコ五輪でも同じような場面があった」というオールドファンの意見も上がってきた。 日本が後半のラスト11分間に攻撃する意志を見せず、自陣でボール回しを行なったことでクローズアップされた“メキシコ五輪グループリーグ第3戦・スペイン戦の引き分け狙い”を詳細に振り返ってみよう。 1968年のメキシコ五輪で、日本はブラジル、ナイジェリア、スペインと同じB組に入る。初戦のナイジェリア戦をエース・釜本邦茂のハットトリックで3対1と勝利すると、続くブラジル戦は1対1の引き分けに持ち込み、日本は勝ち点を4とした。 運命のスペインとの第3戦、他会場のブラジルがナイジェリアに3点差以上を付けて勝たない限り、日本は引き分け以上で決勝トーナメント進出が決まる。 蓋を開けてみなければ、ブラジル対ナイジェリア戦がどんな展開になるかわからない。当初、日本は勝利を目指していた。しかし、後半20分の時点でナイジェリアがブラジルを3対1でリードしているという会場のアナウンスを聞き、長沼健監督は引き分けでの2位通過を狙った。 決勝トーナメント1回戦は1位通過ならメキシコ、2位通過ならフランスとの対戦になる。地の利を生かすチームを避けたいという意図に加えて、競技場の場所も関係していた。1位通過の場合、日本はこの日スペインと戦っているアステカスタジアムから数百キロも離れたグアダラハラに移動しなければならない。 グループリーグから中1日が続く日程を考えれば、同じアステカスタジアムで戦える2位通過のほうが有利に戦いを進められると計算したのだ。 だが、“引き分け狙い”を覆すかのような事実も残っている。この日のスペイン戦を振り返ると、後半に日本が攻めまくっているのだ。37分には左ウィングの杉山隆一からの絶妙なパスを釜本がシュートするもバーに当たる。終了間際には杉山のシュートがこれまたポストに跳ね返された。 当時、スポーツニッポンの特派員としてメキシコを訪れていた石原裕次郎さんは、同紙上でこう語っている。〈後半の残り時間が、わずか10分になってから「ひょっとしたら日本が勝つぞ」という期待で、ボクはわくわくした。スリル、スリルの連続だ〉(スポーツニッポン・1968年10月20日) 後半20分の時点で“引き分け狙い”に作戦を決めたベンチも困惑していた様子だ。岡野俊一郎コーチ(当時)はこう振り返っている。〈代りに入る湯口に「点を入れるな。しかし点をとられるな。引分けにしろ」と全員に伝えるようにいった。ところが湯口が入り、この指示が全員に伝わったはずなのに、このころから試合は日本の一方的な攻勢になった〉(『サッカーマガジン』1968年12月号) 湯口栄蔵の指示は、左ウィングの杉山にきちんと伝わっていなかったため、彼を起点にチャンスが生まれていたのだ。一方で、惜しいシュートを放った釜本はベンチの意図を理解していた。岡野コーチはこう述懐している。〈釜本がわれわれのほうに近づいたとき、両手で輪をつくって並べ、“引分けをねらえ”と合図。釜本はニッコリ笑ってうなづく。その後、釜本が独走し、GKのとび出したところをロブ性のシュートをする。これはバーにあたる。こちらを見て、“うまいでしょう”というように笑う釜本〉(同前) 岡野コーチはそう解釈していたが、釜本自身は内心冷や冷やしていたようだった。〈上にそれると思って蹴ったつもりだったんですが、ボールが思ったところより下にいってしまい、バーに当たったんです〉(『新潮45』2010年5月号) ベンチは引き分け狙いを指示したが、チャンスを何度も作ったことからして、ロシアW杯のポーランド戦と違い、後ろでボール回しをするような具体的な作戦を取らなかったことは確かなようだ。 それでも、結果的に引き分けに終わったことは予定通りではあった。長沼監督は試合後、こうコメントした。〈引分けになると準々決勝でフランスと当ることになり、かえってよい組合せなので楽な気持で戦った。準々決勝の相手フランスはスペインと同程度の相手なので勝つ可能性は十分ある〉(朝日新聞夕刊・1968年10月19日) エース・釜本も同じようなことを言っていた。〈引き分けは日本の予定の行動です。もし勝ったら地元のメキシコと戦わなければならないところだった〉(スポーツニッポン・1968年10月20日) そして迎えた準々決勝。釜本の先制、勝ち越しの2ゴールなどで日本はフランスを3対1で下し、夢にまで見たベスト4進出を果たした。長沼監督はこう振り返った。〈フランスのようにオフサイド・トラップを武器とするラインの浅いチームには、東南アジアで多くの経験をしているのでむずかしい相手ではなかった。ロングのクロスパスを通したのが成功した〉(スポーツニッポン・1968年10月22日) 日本は準決勝のハンガリー戦では0対5で大敗を喫し、地元・メキシコとの3位決定戦に回る。メキシコは数か月前の親善試合で0対4と完膚なきまでに打ちのめされた相手。だが、国際サッカー連盟の役員として日本の戦いぶりを見守っていたデットマール・クラマー氏は勝機を見出していた。〈メキシコはあすグアダラハラから飛行機でこなくてはならないから疲れている。三位のチャンスはまだある〉(毎日新聞夕刊・1968年10月23日) 24日の3位決定戦では、釜本の2ゴールで2対0とメキシコ相手に勝利。試合後、長沼監督は銅メダル獲得の要因をこう語った。〈グループ・リーグの3戦目、対スペイン戦からアステカスタジアムに居すわれたこと、などだ。スペイン戦を引分けに持込んだ作戦の成功も大きかった〉(朝日新聞夕刊・1968年10月25日) 最後の最後まで、予選リーグのスペイン戦の引き分けが大きく影響していたのだ。 メキシコ五輪の銅メダル獲得、ドーハの悲劇、ジョホールバルの歓喜、そして残り1分でベルギーに勝ち越しを許してしまったロストフの悲劇──。経験値を重ねることで、サッカー日本代表は強くなっていく。
2019.03.11 15:41
大物二世の一茂と良純 「炎上しない安心感」で爆売れ中
大物二世の一茂と良純 「炎上しない安心感」で爆売れ中
 114回と138回──これは、長嶋一茂(52才)と石原良純(56才)が、今年の上半期にテレビ出演した回数。タレントではトップクラスだ。 情報番組のコメンテーターからバラエティーまで、「顔を見ない日はない」人気を誇る2人は、それぞれ“ミスタープロ野球”の長嶋茂雄(82才)と、元東京都知事の石原慎太郎(85才)という大物の血を引く「ぼんぼん」。時に、恵まれたおぼっちゃん生活を話のネタにすることもあるのだが、どこかにくめないところがあって、視聴者からの支持を広く集めている。上智大学教授の碓井広義さん(メディア文化論)の分析。「一茂さんと良純さんのファンは、比較的年齢層が高い印象です。それこそ、ミスターや慎太郎さん、叔父の石原裕次郎さん(享年52)の活躍を知っている世代が、“やんちゃ坊主”を見るような気持ちで応援しています。怖いものなしで好き勝手に物申す姿が、むしろかわいらしく映ってウケているんでしょう」 突拍子のない発言が多い“天然系”の2人だが、テレビスタッフたちは困らないのだろうか。「“育ちがいい”というか、“金持ちけんかせず”というか、他人を悪くこき下ろすような発言はしないという安心感があります。毒舌がウケる人は、たまにアクセルを踏みすぎてしまうことがあってハラハラしますが、この2人の場合には、ちょっと天然も入っているから、“炎上”には繋がらないだろうと、安心して起用できるんです」(テレビ局関係者) その証拠が、冒頭のテレビ出演回数なのだろう。最近では、キャラがカブる2人の“セット売り”も多く、今年2月に『徹子の部屋』(テレビ朝日系)に並んでゲスト出演。5月の『今夜くらべてみました』(日本テレビ系)では神奈川・湘南に男2人旅に赴き、6月15日の『ぴったんこカン・カン』(TBS系)では、一茂の個人事務所が入るビルの屋上でバーベキューパーティーを開いた。※女性セブン2018年7月19・26日号
2019.03.11 15:41
『終わった人』舘ひろしが再注目 「浮世離れ感」に熱視線
『終わった人』舘ひろしが再注目 「浮世離れ感」に熱視線
 定年退職した元銀行員役で映画『終わった人』に主演している舘ひろし(68)。その映画のPRもあって、今、バラエティーなどに引っ張りだこだ。そうした番組で舘が見せる素顔に視聴者も驚いている。コラムニストのペリー荻野さんがその魅力について解説する。 * * * 今、日本でいちばん幸せな俳優は、舘ひろしかもしれない。先週、主演作『終わった人』が公開。68歳にして主演映画が撮れるというのは、かの石原裕次郎もなしえなかったこと。俳優としてはそれだけでも十分幸せだと思うが、加えてその映画では妻が黒木瞳で、トキメキの相手が広末涼子と、男性ファンからすれば、こんな幸せはないだろうという顔ぶれである。 しかも、タイトルは切ないが、中身は観た人が前向きになれるコメディ。完成披露の会見映像などでは、観客の大拍手を受け、うれしいそうだったひろし。俳優にとって、作品を喜んでもらえることほど大きな幸せはないはずだ。 そんな中、映画の宣伝もあって、バラエティーにも多数出演していたひろしだが、そこで驚いたのは、世の中はこんなにも「舘ひろしの私生活」に興味があったのだということである。その追跡ぶりは、まさに「聞けるもんなら、今すぐ全部聞かなきゃ」という熱の入り方なのだ。 たとえば『誰だって波瀾爆笑』では、例によってこども時代からのひろしの歩みを紹介。名古屋の由緒ある病院の嫡男が上京後、突如としてリーゼントに黒ずくめのスタイルで大型バイクにまたがる日々がスタート。クールスから石原プロ入りして、装甲車も爆破もどんとこいの撮影を続けていく過程が詳しく語られた。そして番組ではふだん楽屋入りする際には、裸にバスローブ姿で、パンツはローブのポケットに入れていること。楽屋に「MYトースターとコーヒーメーカー」を持ち込んで、『超熟』6枚切り食パンにたっぷりとブルーベリーをのせて食す甘党であることなどを紹介。コンビニに行ったことがないというひろしに、「なんで行くの?」とスタッフのほうが逆質問されるシーンもあった。なんでって言われてもね…。 ひろしは、その数日後に放送された『メレンゲの気持ち』にもゲスト出演。「ドラマのセリフは全てカンペ」とか「家では皿洗い」「二十代から体形が変わらない」などという内容とともにバスローブ話とコンビニ話は再燃。「(コンビニに)傘が売ってるの?」と驚くひろしに、みんなが驚くという構図になった。 自宅の家具はアールデコ調で、いつも買う花はカサブランカ。そんなうちからバスローブで出てくるんですね。本人は、「どっちにしても衣装に着替えるんだからバスローブでいい」「蒸れるのが嫌だ」などと語っていたが、バスローブ出勤は、石原裕次郎、渡哲也の習慣を見習ったらしい。バスローブも「いただくんですよ」という。贈り物にバスローブ!? 誰から!? なんだかよくわからないが、この浮世離れした感覚こそが、「私生活を知りたい」という世間の欲求を呼び起こすもの。ひいてはひろしの幸せの源なのだ。 ちなみに筆者は、今から30年以上前、ひろしと仕事をしたことがあるが、当時から体形が変わっていないのも、甘党でスタッフみんなに甘いものを差し入れるというのも本当の話。映画スターの伝統を受け継ぐ男、ひろし。幸せな浮世離れ人生を歩み続けてもらいたいものだ。
2019.03.11 15:42
大原麗子さんの最初の夫・渡瀬さん
井ノ原快彦、現場でシナリオ変更する「渡瀬イズム」受け継ぐ
「刑事モノドラマ」の人気を左右するのは、“主役の刑事の個性”だ。『太陽にほえろ!』の石原裕次郎さんに始まり、『はぐれ刑事純情派』の藤田まことさん、『古畑任三郎』の田村正和、『相棒』の水谷豊。キャラクターがたつほどに、息の長いドラマになっていく。 昨年3月に急逝した名優・渡瀬恒彦さん(享年72)に“指名”される形で、新シリーズ主演を引き継いだ井ノ原快彦(42才)にとって、今クールはその“個性の強さ”が問われる大一番だった。「主演ドラマ『特捜9』(テレビ朝日系)の平均視聴率は14%ほどで、今クールドラマでトップ。“前作”の渡瀬さん主演『警視庁捜査一課9係』が12%程度なので、井ノ原さんもホッと胸を撫で下ろしているでしょうね」(テレビ局関係者) NHKの朝の情報番組『あさイチ』の司会を8年間も務めるなど、爽やかで穏やかな印象の井ノ原だが、『特捜9』の現場ではガチンコ。「撮影が進む中で井ノ原さんにアイディアが浮かんだときは、迷わず脚本家と掛け合い、セリフだけではなく、シナリオ自体を変更するそうです。ベテランの役者さんでもなかなかできません。決まったスケジュールやセットの中で、特に刑事ドラマは推理やトリックも綿密に計算された上で脚本が書かれるので、変更には手間がかかります。中途半端にはできません。それでも、“もっといい作品にしたい”と共演者だけでなく、スタッフも進んで協力する。井ノ原さんの人柄と熱意があってのことでしょうね」(ドラマ関係者) そこには井ノ原の強いこだわりがある。父と慕う“前任者”から引き継いだ「渡瀬イズム」だ。「今から12年前、『9係』の初回放送の撮影で、初めて渡瀬さんと共演したシーンが忘れられないそうです。リハーサルで、渡瀬さんが台本にないセリフを井ノ原さんに投げかけ、リアクションを求めました。井ノ原さんなりに考えて返した言葉を聞いて、渡瀬さんは黙りこんだ。そして本番前に“さっきのやり取り、本番でも使おう”と渡瀬さんから伝えられたそうです。 役者自身の“個性”を引き出し、劇中のキャラクターと重ねていくことで、さらに役柄が個性的に、魅力的になる。そんな渡瀬さんの演技論を、今でも大切にしているから、シナリオにもセリフにも、自分の考え方を反映させるように意識しているんでしょう」(前出・ドラマ関係者)『特捜9』のロングシリーズ化は必至だろう。※女性セブン2018年6月21日号
2019.03.11 15:42
伝説的雑誌『映画の友』 創刊編集長が語るヒットの哲学
伝説的雑誌『映画の友』 創刊編集長が語るヒットの哲学
 それまで暗い印象のあったアダルトメディアが日の目を見た1970年代、とりわけ異彩を放っていたのが『EIGA NO TOMO』だ。もともと『映画の友』は、洋画紹介誌として一時代を築いたが、1967年に休刊。その後、商標権を譲り受けた近代映画社が日活ロマンポルノの特集雑誌『EIGA NO TOMO』として復刊し、最盛期には40万部を記録したとも言われている。なぜ『EIGA NO TOMO』は他の映画雑誌と一線を画すことができたのか。創刊編集長・小杉修造氏(近代映画社顧問)が同誌の誕生秘話を語る── * * * 休刊していた外国映画誌『映画の友』の名を引き継ぎ復刊したきっかけは、1975年に遡ります。前年に公開されたフランス映画『エマニエル夫人』がヒットしたのを受け、ロマンポルノに力を入れていた日活が『東京エマニエル夫人』の製作に乗り出したことを聞きつけた私は、同作の写真集の企画を日活に持ちかけました。 当時、私が編集長を務めていた『近代映画』は、かつて石原裕次郎や吉永小百合、小林旭といった日活の黄金期を支えたスターを長年紹介してきた歴史があります。当時の『近代映画』はアイドル誌になっていましたが、日活とは太いパイプでつながっていました。 こうしたアダルト要素の強い本が売れるかは未知数でしたが、半月で製作した『東京エマニエル夫人』の写真集は想像以上の売れ行きでした。アダルトという新たな金脈を掘り起こした、そんな思いで日活ロマンポルノに特化した雑誌を作ることになったのです。 一方で、1967年に休刊した『映画の友』の知名度は依然高く、どこかで使えないかと思っていた矢先でした。こうして、『映画の友』の編集長を務めていた映画評論家の淀川長治さんの承諾を得た上で、1976年に『EIGA NO TOMO』を創刊したのです。ローマ字表記にしたのは淀川さんと『映画の友』のファンに対する仁義みたいなものです。 創刊から1年で隔月刊から月刊化したのは、売れ行きがよかったからです。創刊当初の部数は3万~4万部。出すごとにこの数字が伸びていきました。新しい編集者を雇う余裕がなかったため、業務は『近代映画』のスタッフに手伝ってもらいました。当時、『近代映画』の発売日は毎月21日でしたから、その校了後に、今度は10日発売の『EIGA NO TOMO』の仕事に取り掛かるといった具合でした。◆カメラマンが張り付いた スタッフの頑張りもあって『EIGA NO TOMO』は大成功を収めたわけですが、その一方で他社から、いくつも類似誌が創刊されることになりました。しかし、脅威になったものは一誌もありません。 他社と最も違ったのは、ロマンポルノの撮影現場に、常に自社のカメラマンを張り付かせていたことです。『EIGA NO TOMO』のカラーグラビアを彩ったのは近代映画社オリジナルの写真でした。他社は、映画会社からの提供写真で構成せざるを得ません。この点だけでも誌面作りの自由度がまるで違ったといえます。 カラーグラビアのレイアウトにもこだわりました。他のポルノ映画を扱った雑誌が、裸体の上半身でトリミングしていたグラビアが多かったのに対し、『EIGA NO TOMO』では男女の肌が密着している下半身までしっかり掲載しました。それが、男性の感性を揺さぶるものだと知っていたからです。後年、読者からの好評を受けてカラーグラビアのページ数がどんどん増えていきましたが、そのレイアウトとキャッチコピーだけは、私がひとりでずっと担当しました。 ひっそりと商売をやっているつもりだったのに、書店で『月刊プレイボーイ』と並んで置かれることが増え、世間的な認知度も高まっていきました。おかげで、日本雑誌協会や警視庁から何度も呼び出されたのは、懐かしい思い出です。当時はこだわりを尽くして良質な本を作れば売れる時代。創刊から休刊までおよそ15年でしたが、振り返ってみると、とても幸せな時代でした。取材・文■小野雅彦※週刊ポスト2018年3月16日号
2019.03.11 15:45
江口森高、木梨安田、浜田… 芸能人の正月ハワイが再ブーム
江口森高、木梨安田、浜田… 芸能人の正月ハワイが再ブーム
 昨年5月にホノルル国際空港から名称が「ダニエル・K・イノウエ国際空港」と名前が変わったその場所に、この年末年始、異変が起きていた──。昔、お正月のハワイといえば、芸能ワイドショーの定番だった。空港を出るや、レポーターに囲まれる芸能人たち。「きっかけは石原裕次郎さん。正月休みに石原軍団を連れてハワイに行くのが恒例で、そこから『スターの年末年始=ハワイ』のイメージが定着しました」(ベテラン芸能記者) 年末年始のハワイでは、数々のドラマもあった。松田聖子・神田正輝夫妻が、郷ひろみと同じ飛行機に乗り合わせたこともあれば、先日亡くなった野村沙知代さんが神田うのをビンタした事件が起きたのもハワイだった。 一時はスキャンダルを避けてか芸能人の足が遠のいていたが、今年はなぜか右も左も芸能人ばかりの大盛況という。「ヒロミ・松本伊代夫妻、浜田雅功・小川菜摘夫妻などの常連組から、うの夫妻と石井一久・木佐彩子夫妻もいましたよ」(芸能関係者) 他にも、木梨憲武・安田成美夫妻、椎名桔平・山本未來夫妻、江口洋介・森高千里夫妻。薬丸裕英夫妻に、元オセロの松嶋尚美、君島十和子、長嶋一茂らの芸能界ファミリーも続々と現地入りしていた。「若い夫婦も多かった。小栗旬・山田優一家もいて、買い物する優ちゃんの後を小栗くんがランニング姿で歩いていました。人気のラーメン店やそば店などで芸能人同士がバッタリということも珍しくなかったですね」(地元関係者) 年が明け、お笑い特番への出演を終えた芸人たちが大挙してハワイへ。中には複数女性との不貞疑惑が報じられた雨上がり決死隊の宮迫博之の姿もあった。「罪滅ぼしの家族サービスでしょうかね。“昼間は子供たちをプールに連れていきます”と言っていました。オリエンタルラジオの藤森慎吾が、彼女連れで来ていたとの噂も聞きました」(前出・地元関係者) なぜ今、芸能人が再びハワイに集まっているのか──芸能レポーターの井上公造さんはこう解説する。「特に今年は多い印象は確かにありますね。ほとんどが家族連れですが、お正月だけでなくクリスマスをハワイで過ごすかたも多かったようです。羽田空港からの定期便ができたということもあるでしょうけど、最近、ホノルルに新しいホテルやコンドミニアムがたくさんできて、以前にくらべてプライバシーが守られやすいというのも理由の1つでしょう。年末年始のハワイ観光客はリピーターが多く、芸能人に騒いだりしないため過ごしやすいという話も聞きました。別荘を所有しているかたも増えていて、ホームパーティーをする感覚で集まっているようですね。そういう意味でハワイが新時代を迎えたなという感じはありますよ」 4人家族でお正月のハワイに行くとなると100万円は軽くかかるというこのご時世──お正月のハワイはやっぱりセレブの証のよう。※女性セブン2018年1月18・25日号
2019.03.11 15:48
南田洋子、倍賞千恵子…他 「昭和の名女優の水着姿」まとめ
南田洋子、倍賞千恵子…他 「昭和の名女優の水着姿」まとめ
 名女優の美貌は、時を経ても色褪せることはない。昭和の女優、6名の秘蔵水着姿をプロフィールと共にまとめて紹介する。(2017年11月11日更新)︎月丘夢路 月丘夢路は大正11年広島県生まれ。宝塚歌劇団在団中に『瞼の戦場』(昭和15年)で映画デビュー。退団後も100本以上の映画に出演、平成26年「宝塚歌劇の殿堂 100人」に選ばれた。 ︎北原三枝写真:Yuji Hayata/JDC  北原三枝は昭和8年東京都生まれ。『カルメン純情す』(昭和27年)でデビュー。大ヒットした『狂った果実』(昭和31年)で共演した石原裕次郎と結婚した昭和35年に芸能界を引退。現在は石原プロ会長を務める。 ︎南田洋子 南田洋子は昭和8年東京都生まれ。昭和26年大映ニューフェースとして入社、『美女と盗賊』(昭和27年)で映画デビュー。若尾文子と共演した『十代の性典』(昭和28年)が大ヒット。日活移籍後、主演した『太陽の季節』(昭和31年)もヒットし、看板女優として活躍した。 ︎倍賞千恵子 倍賞千恵子は昭和16年東京都生まれ。松竹音楽舞踊学校を首席で卒業。『男はつらいよ』シリーズで演じたさくら役をはじめ、山田洋次監督映画に数多く出演。庶民派スターとして幅広いファン層に愛される。 ︎芳村真理 芳村は昭和10年東京都生まれ。百貨店勤務を経てモデルとして活躍し、昭和35年に大島渚監督の誘いにより『霧ある情事』で女優に転身。その後、テレビ司会者としても活躍した。 ︎岡田茉莉子 岡田は昭和8年東京都生まれ。父は戦前の二枚目俳優・岡田時彦。父娘とも、芸名の名付け親は作家・谷崎潤一郎。成瀬巳喜男監督に抜擢され『舞姫』(昭和26年)で女優デビュー。写真は高倉健との珍しいツーショットだ。
2020.01.16 20:26
渡哲也、映画制作への強い思い 倉本聰脚本の超大作
渡哲也、映画制作への強い思い 倉本聰脚本の超大作
 和室に座って向かい合うと、切子のぐい呑みを口に運び、うなずきあって微笑む。渡哲也(75才)と吉永小百合(72才)が共演する『宝酒造』の人気CMだ。「昨年の秋から放映されて1年が経ちました。ですからこの10月にも新CMをスタートさせようと一部では検討されていましたが、渡さんの体調も考慮して、9月30日に年末から流れる分の撮影が行われました」 そう内情を明かすのはある芸能関係者だ。渡が急性心筋梗塞で入院し、緊急手術を受けたのは2015年6月のこと。同年11月に『宝酒造』のCMで現場復帰したが、ドラマは2013年9月の『十津川警部』シリーズ(TBS系)、映画にいたっては2005年の『男たちの大和/YAMATO』を最後に休業状態が続いている。「渡さんは肺気腫を抱えており、普段の生活では酸素呼吸器の力を借りています。ストレッチやスクワットといったリハビリも行っているのですが、調子が悪いと散歩のための外出すらできない日もあるそうです」(別の芸能関係者) その渡が2年ぶりに公の取材に応じたのが、CM撮影当日のことだった。渡は吉永を見やって、次のように冗談めかしていた。「元気になったら、最後の1本は吉永さんとご一緒したいなと思います。大ラブシーンがあるのを」 渡と吉永は、1966年の『愛と死の記録』を皮切りに、これまで9作の映画で共演を果たしている。もし実現できれば吉永との記念すべき「10作目」となり、渡にとっては悲願だという。「冗談ではなくもう一度映画をつくりたいという思いは強いと思います。それも、倉本聰さん(82才)脚本の作品というものです。これは石原裕次郎さん(享年52)が存命の頃から構想されていた超大作です」(映画関係者) しかし、病状が一進一退を続ける渡にとって、映画撮影はかなりハードルが高い。「渡さんは自分の都合で撮影に影響が出るなど本来は許さない人。『宝酒造』は渡さんが30年にわたってCMに出演し、その前は15年以上、裕次郎さんが出ていたほどで、石原プロモーションとは深い信頼関係で結ばれています。それは吉永さんも同じ。だからこそ、今回は無事撮影を乗り切ることができましたが、映画となると話は違う。CMとは比べものにならないほど大勢の人に迷惑をかけてしまう可能性がある。“製作総指揮”のような形で名前を入れることは可能なのでしょうが、現実的には、今回のCMが吉永さんとの“最後の撮影”になってしまうのでしょうか…」(前出・映画関係者) それでも、俳優・渡哲也の仕事への思いは強い。「先に逝った渡瀬さんの影響もあると思います」(前出・別の芸能関係者) 今年3月、渡の弟で俳優の渡瀬恒彦さん(享年72)がこの世を去った。胆のうがんに加え、渡と同様に呼吸器も患っていた。「昔は頻繁に連絡をとるわけではなかったのですが、お互い闘病中になってからよく話していたようです。渡瀬さんの演技に対する執念や俳優という仕事への思いを聞いて、思うところがあったんだと思います。渡瀬さんの死に、渡さんを心配する声も周囲からあがっていたんです。ですが、その声に反するように、むしろ渡さんは少し元気になったように見受けられました。石原プロモーションの役員に復帰しましたし、渡瀬さんが死の直前まで次の撮影のことを考えていたことに、“同じ役者としての絆を感じた”と深い感銘を漏らしていて、むしろエネルギーになったみたいなんです」(前出・別の芸能関係者) 2年ぶりの取材の場で、闘病中とは思えない気丈な様子で、変わらぬ笑顔を見せた渡。銀幕への復帰もこの人ならやってくれるかもしれない。※女性セブン2017年11月9日号
2019.03.11 14:39
かたせ梨乃や松居一代ら逸材続々『11PM』 警察の大目玉も
かたせ梨乃や松居一代ら逸材続々『11PM』 警察の大目玉も
 かつて“お色気”の最前線はテレビだった。1960~70年代、多くのテレビ局が放送を終えた深夜11時、「シャバダバ、シャバダバ~」というテーマ曲とともに『11PM』(日本テレビ系、1965~1990年)が始まる。 放送開始時は時事問題を扱う「お堅いトーク番組」だったが、視聴率低迷を受けて路線を変更し、女性レポーターに裸で温泉実況をさせるといった“お色気”を導入したことで人気番組となった。日本のテレビ史初の“エロ番組”といわれている。60代男性が振り返る。「AVがまだ無い時代、当時の子供たちが目にする女の人の裸なんて、『平凡パンチ』のグラビアくらいでしたからね。初めて見たときは『動く裸が見られるなんて!』と衝撃を受けました。カバーガールを見るだけでも楽しみでした」 カバーガールとは、CMに入る直前に水着姿でセクシーポーズを披露する女性たちのことだ。当時を知る日テレOBがこう話す。「『カバーガールの良し悪しが視聴率に直結する』といわれるほど、男性視聴者の注目度は高かった。当時の若手女優にとって、カバーガールに採用されるかどうかは『芸能界の登竜門』といわれており、実際に何人もの女の子たちが、カバーガールを経て大女優になりました」 98cm、Gカップのたわわなバストで視聴者を虜にした、かたせ梨乃もそのひとりだ。「彼女の持つ官能的な容姿と、挑発するような表情が『極道の世界にピッタリのコが居るぞ』と評判になり、映画『極道の妻たち』のヒロインに抜擢された理由のひとつだといわれています」(映画関係者) 後に『水戸黄門』(TBS系)での入浴シーンが“ハマリ役”となる由美かおるは、自伝のなかで「(カバーガールとして)ミニスカートに網タイツ姿でダンスしたら、それを見ていた石原裕次郎さんから共演のオファーを受けました」という“シンデレラストーリー”を明かしている。 後に“癒し系女優”としてトレンディドラマに欠かせない女優になった飯島直子も、『11PM』のカバーガール起用が芸能界デビューだ。抜群のスタイルとハイレグ水着で世の男性を魅了した。松居一代、岡本夏生、RIKACOらもカバーガール出身だ。『11PM』にはほかにも注目されている女性たちがいた。「秘湯の旅」というコーナーで温泉ルポをする“うさぎちゃん”と呼ばれるレポーターたちだ。「カバーガールは芸能人っぽいコが多かったけど、うさぎちゃんは一般公募の素人。四苦八苦しながらレポートするのが初々しくて可愛かった」(50代男性)◆ヘアが映っちゃった さらに、女性たちが乳房を露わに相撲を取る「女相撲」、1960~70年代に一世を風靡したストリッパー・一条さゆりによるショーなど、お色気企画が次々に登場し人気を博した。年末には、全国からストリップ嬢を集めて「東西ストリップ合戦」を開催。1974年には深夜に48%という番組史上最高視聴率を叩き出した。 帯番組である同番組で、若手女優が務めた曜日替わりのアシスタント(司会者の補佐役)も楽しみのひとつだった。金曜日に大橋巨泉のアシスタントをしていたのが朝丘雪路。お嬢様女優のイメージの強かった朝丘だが、服の上からでもわかる豊かなバストは、大橋が思わず「どうして、ボインボインと出ているの?」と口にしてしまったことから、巨乳のことを「ボイン」というようになった逸話は有名だ。 深夜に行なわれた生放送だったため、“アクシデント”も多かった。1969年から1985年まで月曜日のアシスタントを務めた松岡きっこがこう明かす。「CM明けにストリッパーさんが振り返るタイミングを間違えてしまい、ヘアが一瞬映り込んじゃったことがありました。スタッフは所轄の麹町署に呼ばれて大目玉をくらい、始末書を書かされてました。でも、全然懲りていないから、同じようなことが度々起こる(笑い)。だから、麹町署では『11PM』を毎回録画して、ポロリがないかチェックされていたようです」 そう言って松岡は笑ったが、1972年には「低俗だ」という理由で『11PM』が国会で槍玉に挙げられたこともある。この番組の社会的な影響力がいかに強かったかが窺える。※週刊ポスト2017年10月27日号
2019.03.11 14:39
木の実ナナ、松本伊代、由美かおるがミニスカはき続ける理由
木の実ナナ、松本伊代、由美かおるがミニスカはき続ける理由
「なんかこう…体が軽くなった感じがするんですよ。うふふ♪」ミニスカートをはいて、ヒロイン・みね子はこう浮かれ、女優を目指す親友・時子はミニスカートが似合う女の子を決める「ツイッギーそっくりコンテスト」で「絶対優勝する」と意気込み、茨城ではみね子の母・美代子が夫に隠れてこっそりミニスカートに挑戦する。NHK連続テレビ小説『ひよっこ』の舞台は1960年代後半に突入。1967年にミニスカートを颯爽と着こなすスーパーモデル・ツイッギーが来日したことで日本中にミニスカート旋風が巻き起こり、登場人物たちもミニスカに夢中なのだ。視聴者からは、今から50年前に起こったミニスカブームを懐かしむ声が相次いでいる。「10代の頃から“女は子供を産んだらひざを見せてはいけない”と言われていたので、出産して以来、ミニどころかひざ上のスカートすらはいていなかったんですよね。今となっては世間様に見せられない脚になっちゃいましたけど…(苦笑)。でも、『ひよっこ』を見ると思い出すんです。ツイッギーファッション、大好きだったなあって」(東京・主婦・62才)「大学生の孫から“おばあちゃん、『ひよっこ』みたいなミニスカートない?”と言われたんや。当時手作りしたミニのワンピースやチェックのミニスカートを見せたら、大喜びで持って帰りましたね。思い出があって捨てられずにいたんやけど、こんな形で日の目を見るのもなんだかうれしいもんやね」(大阪・主婦・73才)◆ミニスカート現役を貫く有名人たちの心意気とは?ツイッギー来日の影響を受けて、その後の人生が大きく変わったのは、“生涯ミニスカート宣言”をして、71才の現在も惜しげもなく、ミニスカ姿を披露する女優・木の実ナナだ。「ツイッギー来日直前、デザイナーの鳥居ユキさんに“はいてみて”って言われたのが始まりでした。だから、日本で最初にミニスカートをはいたのは私といっても過言ではありません。最初は面積が小さいスカートにビックリしましたけど。でも、どうせはくならきれいにはきたいと思って、努力しているうちに好きになっちゃった。ミニスカートは女性らしくいられると同時に、シャキッとするアイテム。はくだけで気分があがるのがミニスカートの魔力ですよ」以来、ミニスカは木の実の代名詞となり、今ではファンもミニスカでなければ許してくれないという。「私は永遠にはき続けたい。人生を輝かせることができるのは自分だけ。だから、ミニスカをはき続けて自分らしく生きたい」木の実と同時期に西野バレエ団の“レ・ガールズ”の一員として、超ミニスカートに白いブーツで一世を風靡した由美かおる(66才)はミニスカの魅力をこう語る。「恩師である西野皓三先生のプロデュースによってミニスカ姿でデビューした私ですが、その姿を見た石原裕次郎さんが映画『夜のバラを消せ』(1966年)の相手役に抜擢してくださいました。ミニスカートは女性をかわいく、そして元気にしてくれるものだと思います。自分を強調するように、颯爽と歩いてほしい。ミニスカートにはアクティブなパワーが詰まっているんです」10代の頃と変わらぬ美脚を誇る松本伊代(52才)もミニスカ現役組。ただし、年を重ねてTPOに細心の注意を払うようになったという。「ミニスカートは大好き。(夫の)ヒロミさんも喜んでくれるし(笑い)。でも、夏は生脚で出かけるのは控えたり、冬場はブーツやタイツを合わせてはいたりと、年齢とのバランスがとれるよう、自分なりに調整しています」だが、松本はこんな思いも吐露してくれた。「周りにやめたら? と言われたらやめるつもり。無理しちゃってとか、若ぶってると思われるのが嫌なので。だから、友達にも“イタい”と思ったら言い合おうねって言っているんです。自分の満足だけではなく、周りの目も気にすることって、自分をよりよくするためになると思うから」一方で、小島慶子(45才)は、周りの目を気にして自分が着たいものを封じることは “不毛なこと”と一刀両断。「私の住んでいるオーストラリアではおばあちゃんたちも短パンやビキニを着ていますよ。誰も目くじらをたてません。他人の服装に対してみっともないとか、見ているこちらが恥ずかしくなるなんて言うのは余計なお世話。誰でも年をとるのに、中年以降の体を恥じなくてはならないなんて、ひどい話です。ファッションと年齢の話が出るたびに、女性の体は誰のものかと考えてしまいます」※女性セブン2017年9月28日号【気になる記事をチェック!】●まずは家トレ!お腹シェイプ、美脚ゲットの注目グッズ7選●さすってむくみ解消!【魔法の絹手袋マッサージ】で美脚に●ひざ下O脚を改善!【座ったままエクサ】でほっそり美脚に●【ダイエットなんでもQ&A】ふくらはぎすっきり!美脚を作る「ヒールアップ」●【注目グッズ】目指せ、美脚!ジェルとローラーでむくみと冷えを解消
2019.03.11 14:40
北の富士のキュートな笑顔と鮮やかな着こなしに女性メロメロ
北の富士のキュートな笑顔と鮮やかな着こなしに女性メロメロ
 相撲ブームが沸騰している。「謎のスー女」こと相撲女子の尾崎しのぶ氏が、相撲コラムを週刊ポストで執筆中。今回は、テレビ中継の解説でもおなじみの元横綱・北の富士について尾崎氏が綴る。 * * * 本場所中に東京中日スポーツを買うのは、北の富士勝昭の連載を読むためである。そのせいで、にわかドラゴンズファンになってしまった。野球のルールはまったく知らないのだが、森監督が相撲の親方に見えたり、若松投手の顔が貴景勝に似ているような気がしたり、とても楽しい。「遠藤が病床の祖母に元気届けた」との記事も読み間違った。追手風部屋の遠藤聖大ではなく、中日の内野手・遠藤一星のことであった。右腕を骨折したビシエドは今季絶望的だそうでさみしい。ビシエドのゴロンとした力士っぽさが好きだし、ゲレーロと合わせての「ビシゲレ」という呼ばれ方はまるで「栃若」のようにシャープですばらしいではないか。 それなのに五日目を報じる誌面にお目当ての連載『はやわざ御免』が掲載されていない。九月場所の状況に「筆を持つ手が重い」とはすでに書かれていた。日馬富士が三敗目を喫し照ノ富士が休場となった五日目について書きようがなく『はやわざ御免』は休載となった。そうに違いないと私は思い、大鵬の孫で貴闘力の長男の納谷幸男がプロレス白星デビューとのニュースで物足りなさを埋めた。 しかし翌日、不安になる。また『はやわざ御免』が休んでいるから。NHKの放送予定を見る。中日の正面解説は北の富士が担当することが多いのだが、春日野親方となっている。九日目は祝日だからそっちに回ったかと思いきや舞の海。 北の富士は心臓を患い昨年末手術をし、一月場所はテレビ解説に出演しなかった。三月に復帰した時にはさすがに顔色がさえなかったが、だんだんとツヤを取り戻しているように見えていた。まさか九月場所に続く悪い出来事の最大事は北の富士の……。 私の相撲観は、半分以上が北の富士の受け売りである。「NO北の富士NO相撲」と言っても過言ではない。かみ砕いてすっきりとした言葉を言ってくれる北の富士に、相撲にくわしくない私だけど楽しんでいいんだよね、とはげまされる。 北の富士を好きな理由の一つには、おしゃれさもある。和装のほどよい崩し方、何本所有しているのだろう、次々に変わるメガネ、そしてその奥のチャーミングな瞳! ふんわりしたツイードを身に着けた様には「ああ、秋が来た」と日本の四季を感じさせられる。 夏ファッションが特にいい。はだけたシャツからのぞく胸は日焼けしていて、貝をつないだネックレス、白いスポーツウォッチ。笑った歯がまた白い。まぶしすぎて、解説席が砂浜に見える。 国技館に行くとラジオ解説時の姿も見られるのだが、画面に映らないからなのであろうラフな服装が、またこなれている。ピンクとダークブルーのラガーシャツにストレートジーンズ。現役時代、石原裕次郎と股下の寸法? が一緒なのだと自慢していた北の富士。ヒップの位置がとてつもなく高く、その通りだと見惚れてしまう。 ジーンズの足元の下駄の音もスタイリッシュ。北の富士が漂わす良い香りはパルファムなのだろうか、それとも北の富士自身の体臭か。嫌味でない、しかし濃厚な香りがして腰が抜けるのですれ違いたくない。北の富士の私物を公開するスタイルブックが出版されたら私は十冊買うつもりだが、その内容(真っ赤なレザージャケットなど)を参考にできる日本人男性はまずいないだろう。 北の富士のキュートな笑顔や鮮やかな着こなしが走馬灯となってめぐり、いつまでも忘れない、あんなかっこいい人は今後出会えないと涙をぬぐった。 しかし二日分の休載ののち東京中日スポーツ『はやわざ御免』は復活、九日目はラジオ解説(自らの担当日だと思い解説席に行った八日目、陸奥親方がすでに座っていて周りに笑われて恥ずかしかったのだそうだ)、十日目にはテレビに登場した。うれしすぎて「心配して損したっつーの」とプリプリしてしまった。これからも元気でチャラい、時におとぼけさんな解説で楽しませてもらいたい。※週刊ポスト2017年10月13・20日号
2019.03.11 14:40
写真:Yuji Hayata/JDC
【昭和の女優 水着の煌めき】北原三枝の柔肌と微笑
 ここで、昭和の女優の秘蔵カットを紹介しよう。 北原三枝は昭和8年東京都生まれ。『カルメン純情す』(27年)でデビュー。大ヒットした『狂った果実』(31年)で共演した石原裕次郎と結婚した35年に芸能界を引退。現在は石原プロ会長を務める。●写真:Yuji Hayata/JDC※週刊ポスト2017年10月13・20日号
2019.03.11 14:40

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