石原裕次郎の最新ニュース/6ページ

【石原裕次郎】に関するニュースを集めたページです。

俳優生活55年小倉一郎 若き日の孤独を撮影所が埋めてくれた
俳優生活55年小倉一郎 若き日の孤独を撮影所が埋めてくれた
 俳優生活55年を迎えた、俳優で俳人の小倉一郎(64才)。細身で頼りなさそうなキャラクターを強みに、市川崑監督(享年92)や深作欣二監督(享年72)など名匠たちと渡り合ってきた。一方で俳句やエレキギター、作詞作曲、篆刻(てんこく=書画などに使う印章を作ること)、墨絵…とマルチな才能をのぞかせる。尽きることのない彼の好奇心はどう生まれたのか? 梅宮辰夫(77才)の口添えで東映児童演劇研修所に入り、石原裕次郎さん(享年52才)主演の『敗れざるもの』(1964年)で映画デビュー。脚本家の山田太一(81才)にかわいがられ、多くの名匠たちと渡り合ってきた。出演した作品は約500以上。それでも、“大御所だぞ”と、偉ぶるところは一切ない。むしろ、「密着は長丁場になるでしょうから、こちらをどうぞ」と、パンや寿司をふるまわれてしまう。さらに自身の著書、CD、手品グッズ、特注の原稿用紙…と会うたびに手土産を渡される。「いや~…そんな特別なことは。養母は生前“人によくしろ”と言っていましたから。あ、生みの母はぼくを産んで1週間で亡くなってしまっているんです。父は結核で入院したきりだったので、父の姉、つまり伯母が引き取ってくれました。その時、伯母は51才でしたから、バアさんです(笑い)。一生懸命育ててくれたのは幼心にもわかりました。生活保護を受けているのに、月賦でぼくのギターを買ってくれたり。でも言葉遣いにはうるさくて、ちょっとでも変なこと言うと物差しでぶたれましたね(苦笑)」(小倉・以下「」内同) 慈しむように家族の話をする小倉。実は小倉には双子の兄がいたが、2才の時に船着き場で遊んでいてふたりとも溺死し、2つ上の姉は小倉が16才の時に脳腫瘍で亡くなってしまった。そして入退院を繰り返していた父も交通事故で不慮の死を遂げてしまったという。そんな孤独を埋めてくれたのが、撮影所であり、本だった。「エキストラの仕事で学校も休みがち。たまに出る算数の授業なんてちんぷんかんぷんです。貧血で倒れるので体育も教室からぽつんと眺めてるだけ。だから喜々として撮影所に通っていましたよ。それと当時、隣に住んでいたお姉さんが芸術系の大学に通っていて、読み終わった芸術誌を分けてくれた。そこには俳句も絵画も篆刻も全部入っていて、夢中になって読んだものです。だからぼくにとって本は師であり、友達なんです」 俳句は父も母もたしなんでいた。「女優の松岡みどりさん(70才)と舞台をご一緒している際、『初芝居女樂屋の笑ひ聲(こえ)』と詠んだら褒めていただいて。そこからですね。俳句では、うれしいとかかなしいという言葉を極力排除しながらも、そこから感情がにじみ出てくるところに美を感じます。ぼくは“月がきれいですね”というような句より、(胸の部分に手を置いて)人間の気持ちを揺さぶるような句にこだわっていきたい」 俳句教室の生徒からは「小倉先生の『早春や恋もしなくちゃなんないし』が大好き!」という声が。「長生きはしたいです。ひ孫も見たいし(子供は4人、孫4人!)、映画も作りたいし、ギターも俳句も…やりたいこといっぱいなので(笑い)」撮影■浅野剛※女性セブン2016年3月17日号
2019.03.11 17:03
「痛みの王様」「最も辛そう」と表現 死ぬ時に辛い病気は何か
「痛みの王様」「最も辛そう」と表現 死ぬ時に辛い病気は何か
 できることなら安らかな最期を迎えたい。歳を重ねれば誰でもそう思うのが自然だ。しかし、当然ながらどんな死に方だと苦しむことになるのかという“体験談”を聞くことはできない。だから、余計に知りたくなる。そこで本誌は死の淵から生還した患者や、臨終の現場を見てきた医師の証言を集めた。そこから明らかになった「死の瞬間」の真実をレポートする。 これはある男性の話。夜中に寝転びながらテレビを見ていて、ふと体の向きを変えた瞬間、背中のあたりに激痛を感じ、背骨に強い電流が走ったような刺激がずっと続いて床をのたうちまわった。呼吸と脈拍が一気に早くなって顔中から脂汗が垂れていく。風呂に入っていた妻が気付いて救急車を呼んだが、搬送される途中で意識が遠くなり、目が覚めた時に映ったのは―病院の白い天井だった。 これはかつて石原裕次郎を苦しめた大動脈解離という病気だ。大動脈の内膜に裂け目が生じることで、猛烈な痛みに襲われる。ただし、米山医院医院長の米山公啓医師は「もしかしたら、死ぬ瞬間の苦しみはない病気かもしれない」と語る。「大動脈解離は七転八倒するくらい激しい痛みを伴いますが、これは患者にとって『まだ生きられる』というシグナルでもあり、病院に駆け込んで応急処置をすれば命が助かることも少なからずあります。 その一方で死因となる場合は血管が破裂し、出血多量で即死のことが多い。即死の場合、おそらく“痛くない”のでしょう。ただ、こればかりは亡くなられた方にしかわかりませんが……」 医療関係者が「キング・オブ・ペイン(痛みの王様)」と呼ぶのが急性膵炎だ。膵臓は膵液という消化液を作る臓器だが、急性膵炎は出来上がった膵液がうまく流れず、膵臓内に炎症を起こしてしまうことで発症する。消化液が膵臓の細胞を溶かし壊死させる過程で鋭く重い痛みが生じる。「急性膵炎は腹部を鈍器でえぐるような痛みが走るといわれます。以前、運転中に急性膵炎になった50代の患者が、あまりの痛みでハンドルを握れなくなり、交差点の真ん中で気を失って停車してしまったことがありました」(医師でジャーナリストの富家孝氏) 重篤な急性膵炎の場合、命を落とすこともある。医師の多くが「最も辛そう」と話すのががんの骨転移だ。「骨の周りには神経が束になっていて、そこまでがん細胞が侵食すると、強い痛みを生じます。がん細胞が大きくなるとともに痛みも強くなる。ほんの少し体を動かしただけで、思わず声をあげてしまう方もいます」(医療ジャーナリストで医師の森田豊氏) あまりの苦痛に「いっそ殺してくれ」と懇願する患者も少なくないという。緩和ケアで処方されるモルヒネの量では末期がんの骨転移には効かない場合が多い。かといって痛みを抑えるため多量のモルヒネを処方すると、昏睡状態に陥ることもある。いずれにせよ苦しみ悶えているのが「最期の記憶」になる。※週刊ポスト2016年2月5日号
2016.01.25 17:20
遺骨の扱いに困る現在の日本 デヴィッド・ボウイは散骨予定
遺骨の扱いに困る現在の日本 デヴィッド・ボウイは散骨予定
 昨年4月、東京都練馬区で、病死した妻(64才)の、火葬されたばかりの頭蓋骨をスーパーの屋外トイレに捨てたとして、無職の夫(68才)が書類送検された。刑法190条により、遺骨を捨てることは“死体遺棄”罪にあたるためだ。夫は「生前、(妻に)苦労をかけられ、憎んでいた」などと容疑を認めたという。 2010年11月には、2008年に両親の遺骨を遺棄した男性が逮捕された。「金がなく、どうしようもなくて捨てた」と供述。逮捕まで2年を費やしたのは、男性が親戚を頼れず、職を失い、家を失い、路上生活を送っていたためだ。 また2007年には、寺の境内に夫の遺骨を遺棄した疑いで73才の女性が逮捕された。2004年から遺骨を保管してきたが、「これ以上の保管は困難」「子供に迷惑をかけたくなかった」と漏らしたという。 一方で、読売新聞の報道によれば、1年間で、警視庁管内では10個、九州圏で16個、近畿四国で27個の骨壺の遺失物があった(2012年度)。電車の網棚や公共トイレなどで発見されたそれらの骨壺には共通点があった。戒名札や火葬場を特定できるような包みが取り除かれていたという。つまり、忘れたのではなく、「捨てた」のだ。 遺骨は法律上、勝手に遺棄することはできないので、納骨するか、手元に置いておくかしなければいけない。一方で近年、墓を巡る問題が深刻化している。過疎化、核家族化の影響で、地方には無縁仏が増え続けている。また都市部では土地が高騰し、墓を買えない人が多い。冒頭の事件は、そんなやむにやまれない事情が絡みあった不幸の連鎖といえよう。 そんな現代において、注目されているのが「散骨」だ。火葬後の焼骨を粉末状にして、海や空、山中などにそのまま撒く葬法だ。 日本では1987年、石原裕次郎(享年52)が亡くなった時、兄の石原慎太郎(83才)が、「海を愛していた弟は、海に還してあげたい」と海洋散骨を計画したが、当時の法解釈(刑法190条、墓地、埋葬等に関する法律)では認められず断念。しかし1991年に「葬送のための祭祀で節度を持って行われる限り違法ではない」と法務省が発表。これ以降「他人の土地に無断で撒かない」「散骨場所周辺の住民感情に配慮」といったことを遵守するということで、散骨が行われるようになった。 世界でも古くは、ドイツの理論物理学者、アルベルト・アインシュタイン(1955年死去、享年76)、20世紀最高のソプラノ歌手といわれたマリア・カラス(1977年死去、享年53)らが散骨している。最近でも1月にがんのため死去した、イギリスのアーティスト、デヴィッド・ボウイ(享年69)の遺灰は、彼の別荘があった米ニューヨーク州の山地で撒かれるという。※女性セブン2016年2月11日号
2016.01.28 14:10
長澤まさみがスケスケ衣装で登場 「今度は下半身も」の期待も
長澤まさみがスケスケ衣装で登場 「今度は下半身も」の期待も
 2015年末に行われた、第28回日刊スポーツ映画大賞・石原裕次郎賞の表彰式。約600人の映画関係者が集まる中、主演女優賞は7年ぶり2度目となる綾瀬はるか(30)が受賞した。綾瀬が主役を演じた四姉妹の物語『海街diary』からは、長女役の綾瀬だけでなく、次女役の長澤まさみ(28)が助演女優賞を、末っ子役の広瀬すず(17)が新人賞を受賞している。 主演男優賞は、『悼む人』と『きみはいい子』の2作品で主演した高良健吾(28)が初の栄誉に輝いた。 綾瀬は受賞の挨拶で「最初、監督(是枝裕和)の脚本をいただいた時は、うん、難しいなと思いました。ですが、自分とはかけ離れた役だと思っていたんですけど、撮影をしていく中で、“あ、こういうところ、私にもあったな”ということをすごく気づかされて、新たな発見になる、スタートになる作品なのかなって思いました」と語った。 長澤は、「私が演じた次女は、お姉ちゃん、そして妹たちがいなかったら演じられなかった役だと思っています。この映画を一緒に作った人たちのお陰でこの賞がいただけたと思っています。これからも息の長い女優さんになれるように頑張っていきたいと思います」と今後の抱負も含めて挨拶。 プレゼンターとして登場したリリー・フランキー(52)は、長澤のスケスケ衣装に着目し、「いい女の落ち着いた映画なのに、なんかちょっとエッチな映画を観た気がするな…というのは、やっぱ長澤さんの力量。重要なことなのに形になりにくいものをちゃんと評価してくれた審査員の皆さまの目の高さ、そして、何より今日の衣装がすばらしい。来年は下半身もシースルーでいきましょう!」と語り、長澤はじめ会場を笑いで包んだ。 また、新人賞の広瀬のプレゼンターには能年玲奈(22)が登場し、こちらも多くのフラッシュを浴びていた。 広瀬は、「今日この舞台に、女優としても、女性としても尊敬するお姉ちゃんたちと立てたことが幸せです。皆さんにかわいがってもらって、役も最初で最後じゃないかなと思うくらい運命を感じる役でした」とコメント。 撮影終了後には、三女役の夏帆(24)から洋服のおさがりを紙袋に2袋くらいもらって現場に着ていった…というエピソードなどを明かし、「自分が、浅野すずとしていられたことと、家族になれたことが、毎日嬉しいなと思う日々でした」と嬉しそうに語った。 その他、作品賞は『ソロモンの偽証』(成島出監督)、監督賞は『日本のいちばん長い日』の原田真人監督(66)、助演男優賞は同じく『日本のいちばん長い日』の本木雅弘(50)が受賞した。 外国作品賞は、デミアン・チャゼル監督の『セッション』、ファン大賞は『ジョーカー・ゲーム』、石原裕次郎賞は、『日本のいちばん長い日』、特別功労賞は映画評論家の故品田雄吉さん(享年84)が受賞した。撮影■高柳茂
2016.01.14 18:54
石原裕次郎も苦しんだ大動脈解離 数年すれば救える命増える
石原裕次郎も苦しんだ大動脈解離 数年すれば救える命増える
 今は治療法が確立されていない病でも、5年後ならなんとかなる──そんな期待を抱かせる、多くの興味深い研究が世界各国で進められている。もっとも期待されているのは、国内で死亡者数の多いがんだが、がん以外の「三大疾病」でも新治療法が登場している。 脳卒中(脳血管疾患)は脳の血管が詰まる「脳梗塞」と脳の血管が破れる「脳出血」「くも膜下出血」に大別される。 全体の7割を占める脳梗塞は、意識障害や片方の手足のマヒなどが起こる。血管の詰まり(血栓)が原因で、時間とともにマヒなどが大きくなり、早期の治療開始が極めて重要だ。 従来は発症から4時間半以内に薬物を注入して血栓を「溶かす」治療にだけ効果があったが、それより治療開始が遅れても間に合う治療法が登場した。くどうちあき脳神経外科クリニックの工藤千秋院長が解説する。「10年に認可された『血栓回収療法』です。血管にカテーテル(細長い管)を入れ、詰まっている血栓を『回収』します。この方法は脳梗塞発症から8時間までは大きな効果が見込めます」 治療開始が遅れても、命が助かる可能性が上がった。「今のところ手術を行なえる専門医は少ないが、技術を習得しようとする医師は増えてきている」(同前) 日本人の死因第2位である心不全(心疾患)。一般的に心筋梗塞を発症後、心臓の機能が低下することで動悸、息切れが起こり、症状が悪化する。大阪大学では心筋梗塞の発症後、特定のタンパク質(ペリオスチン)が心臓の機能を弱め、心不全をもたらす仕組みを解明。 さらにそのタンパク質の働きを弱める抗体を研究し、ラットの実験で効果を得るまでに至っている。ペリオスチンの働きを弱める薬を開発できれば、心不全の発症を防げる可能性が出てくる。 古くは石原裕次郎も苦しんだ「大動脈解離」。あまり知られていないが、死に至る可能性が高い病気だ。 大動脈は心臓から送り出された血液が最初に通る大切な血管で、外膜、中膜、内膜の3層構造になっているが、何らかの原因で最も内側にある内膜に亀裂が生じ、中膜にまで血液が流れこんでしまう。発症すると激痛に襲われ、最悪の場合は大量出血で亡くなる。 この病気には、従来の治療法の欠点を補う高性能な「医療器具」が開発された。医療経済ジャーナリストの室井一辰氏がいう。「従来、血管の内側に人工血管を挿入する治療法があったが、亀裂部分を完全には塞げなかった。しかし、2015年10月に発売された高性能の人工血管は、亀裂を完全に塞げるようになった。普及には数年かかると思いますが、救える命は増えるでしょう」※週刊ポスト2016年1月1・8日号
2019.03.11 15:47
稲垣潤一 『クリスマスキャロルの頃には』誕生の裏話を語る
稲垣潤一 『クリスマスキャロルの頃には』誕生の裏話を語る
 発売から23年。これからの季節、いったいどれくらい耳にするだろう、『クリスマスキャロルの頃には』。 その歌手、稲垣潤一さんが自身のデビュー前後の「ハコバン」(後述)生活を描いた書籍『かだっぱり』を上梓。寡黙、真面目。彼を語る資料にはこれらの言葉が多く登場する。しかも発売されたばかりの著書は『かだっぱり』。宮城の方言で、「がんこ」「意地っ張り」という意味だそうだが、ということはインタビュアー泣かせということか?(取材・文/活動屋映子)「よろしくお願いします」――あれ? 歌の声と違いますね。「よく言われます(笑い)」 と、微笑がこぼれる。ホッ。そう、話し声は低めで穏やかな印象だ。――すごく意地っ張りなんですか?と、これまた無謀にも聞いてみると、「メジャーデビューする前、10年間も“ハコバン”をやっていたわけですから、やっぱり自分はかだっぱりなんだと思いますね」 と、さらに笑みが。音楽に関してはかだっぱりだけど、それ以外はそうでもないのかもしれない。そう思ってると、彼がおもむろに話し始めた。「音楽ばかだったんですね。ディスコ、キャバレー、ダンスホール、ビアガーデン、業態もいろいろなら、潰れた店もギャラももらえない店もありました。けど、やめようとは思わなくて、そういうお店でずっとぼくはハコバンをやっていたんです」 ハコバン。聞きなれない言葉だが、彼があげたような店(ハコ)で、ライブ演奏をしているバンドのことをいう。1970~1990年代にかけて、さまざまなバンドがハコバンとして活動していた。彼の著書『かだっぱり』には、バンド仲間との交流や1970年代からのヒット曲が網羅されている。ギャラももらえず、うらぶれた思いに沈む下積み時代の様子も赤裸々に。――ご著書によると、このハコバン時代、「負け犬」呼ばわりされていたとか?「はい。“負け犬じゃん”と言われたり、“いつまでこんなとこで歌っているんだ”と言われたこともあります。決して平然として聞き流せたわけじゃないけど。(そう言って少し間を置き…)人が何をしようが、大きなお世話ですよね。ぼくは好きな音楽ができるんなら、一生ハコバンでもいいと思っていたから(と、きっぱり)。ただ、いつかはバンドとしてプロデビューしたいという希望も持っていたんです」――三度の飯より音楽が大好きという感じだった?「まあ、そうですね。うちは親父が洋楽好きで、家ではいつも外国の曲が流れていたんですよ。ナット・キング・コールとかタンゴとか。両親とも歌謡曲や演歌が嫌いで(笑い)。だからぼくも洋楽以外は聴いたことがありませんでした。ぼく自身が音楽に衝撃を受けたのは、小学5年生のときに聴いたビートルズですね」――ドラムを選んだのはなぜですか?「ドラムセットのたたずまいに憧れたんです。当時、楽器屋さんにはドラムセットがかっこよく飾ってあったんです。それを見て、中1のときにはドラマーになろうって決めてましたね。家では菜箸をスティック代わりにして机を叩いたりして(笑い)。中3のときにお小遣いを貯めて3000円の頭金を払い、3万円のドラムセットを10回払いの月賦で買ったんです。よく親父も許してくれたと思いますけどね。友達に教えてもらったら、エイトビートも叩けたんです。それでビートルズやベンチャーズのレコードに合わせて、指の皮がむけるまで叩いてましたね」 稲垣少年のきらきら輝く瞳を想像しながら、ドラムを叩くのは認知症の予防になるらしい、という先頃目にしたニュースをつい口にすると、「確かに、リハビリになるかもしれませんね。(と、茶目っ気たっぷりに笑ったあと)ドラムって誰にでも叩けますから(と、真顔で)」――いやいや。無理ですよ、手と足バラバラで叩くなんて!(と言うと、稲垣さんはニッコリ)。話は変わりますが、子供の頃から歌は得意でしたか?「全然。学校の音楽は嫌い。というか興味がなかったですね。ハハハハハ」 それまでの控えめな笑顔と変わって、大きな笑い声。「ぼくはね、先生に毎日怒られていたんです(笑い)。じっと座っていられない、注意散漫だと言われてチョークは飛んでくる、バケツを持って廊下に立たされる…。教壇の隣に机を置かれたこともあったなぁ、ハハハハハ。でも、めげないんですよ」 確かになかなかのかだっぱりだ!◆その“くどさ”がいいんです ドラマーとしてデビューする夢を抱き続けていたのに、声が認められて、歌手としてデビューしたのは28才のとき。遅いデビューだ。――ご自分の声をどう思います?「自信はありましたけど、周りで認めてくれる人はいなかった(笑い)。ハコバン時代、お店に来る人って、たいていホステスさん目当てか、踊りたいからで。歌を聴きに来る人なんかいませんでしたからね」――やがて『クリスマスキャロルの頃には』の大ヒットを飛ばしました。「これは三井誠さんの曲が先にできていて、素晴らしい曲になることはわかっていたんです。でも、サビの部分があまりによくて、そこだけ突出してしまうんですよね。で、直しの作業だけで2~3年も経ってしまったんです。普通だったら投げ出してしまうと思うんですけどね。そこに、秋元康くんが詞をつけてくれたんだけど、『クリスマスキャロル』という言葉が8回も出てくる。ぼくが“くどいんじゃないの”って言ったら、秋元くんが“そのくどさがいいんですよ”って(笑い)」 はからずも知る名曲の誕生秘話。そして、今また女性歌手とのデュエットによるカバー・アルバム『男と女』シリーズが堅実なヒットを飛ばしている。今秋発売された5作目も好評だ。――松田聖子やユーミンなどオリジナルは女性歌手ばかり。そんな中『およげ!たいやきくん』が異色ですね。「ぼくのハコバン時代、1975年の曲です。当時のぼくはドラマーだから歌は歌わない、まして邦楽は歌わない、と決めていたんですが、“たいやきくん”は大ヒット曲ですからね、歌わないわけにはいかなかったんです。そんな思い出の曲でもあるので、今回アルバムに入れました」 ジャズっぽいアレンジで大人がじっくり聴ける曲になっている。なお、稲垣のデュエット曲数は、このアルバムで59曲となり、石原裕次郎さんを抜いて日本人単独トップだそう。――本当に歌声が変わりませんが、声のために心がけていることはありますか?「33年も歌ってきて、声が変わっていないわけはないんですけど、“変わりませんね”と言っていただけるのはうれしいですね。この声を守り抜いていかなければと思いますが、特別なことはしてないんです」――暴飲暴食なんてもっての外?「ああ、最近は慎んでいます(笑い)」 最後の最後まで崩れることのない稲垣さん。その真面目な人柄は好感度大でした。撮影■矢口和也※女性セブン2015年11月26日号
2019.03.11 15:51
山下真司 ラグビー日本代表は「まさに『スクールウォーズ』」
山下真司 ラグビー日本代表は「まさに『スクールウォーズ』」
 ラグビーのワールドカップ(W杯)イングランド大会で、初めて1 大会3勝を挙げた日本代表。強豪の南アフリカに歴史的な勝利を収め、感動を呼んだ。そこで、今でも語り継がれる学園ドラマ最高傑作『スクールウォーズ』(TBS系)で、高校のラグビー部の監督役を演じた山下真司(63才)に、ラグビーについて熱く語ってもらった。――ラグビーW杯、日本代表の試合はいかがでしたか?山下:まるで『スクールウォーズ』みたいでしたね。あのドラマと同じように涙しました。ラグビーのW杯は優勝賞金がないし、名誉のためというか、アマチュアリズムにのっとって、仲間のために戦う姿は泣けますよね。久しぶりに、いい意味で鳥肌が立ちました。格好いいという言葉だけではすまされませんが、本当に格好よかったですね。――どのあたりが『スクールウォーズ』に似ていると? 山下:南アフリカ戦で最後の最後に逆転を決めたシーンなんてまさにそうでしたよね。日本代表は今まで弱小で、体が小さくて、勝てなかったじゃないですか。それを一気に盛り返したのは、忘れ去られそうになっていたラグビーを、国民に思い返してほしいというラガーマンの悔しさであり情熱だと思うんですよね。『スクールウォーズ』でも弱小チームが、わずか数年で全国制覇を成し遂げるまでが描かれますけど、それは悔しさをバネにして必死に練習したから。滝沢賢治(ドラマの山下の役名)が生徒たちを鼓舞するところも、エディー・ジョーンズHCが選手に熱く語る姿とリンクします。――五郎丸選手が、一躍ヒーローとなりましたね。山下:それでも五郎丸選手は、自分が中心だとは言いませんよね。やっぱり一人の力では勝利はあり得ないと思うし、まさに“ONE FOR ALL, ALL FOR ONE”(一人はみんなのために、みんなは一人のために)のチームプレーで勝ち得たものだから。『スクールウォーズ』では何度も出てきた言葉ですよね。 そうは言っても彼は主役といえば主役なんだよね。キックを決めないといけないので、その成否が勝敗を大きく左右する。3点というのは大きい。トライをする人もヒーローだけど、キックをする五郎丸選手は大変なプレッシャーの中でやっている。だから見ている方も面白いし、ハラハラドキドキもする。――五郎丸選手のルーティーン、あのポーズが注目されていますよね。山下:最初見た時は、けったいなポーズだなって思ったんだけどね(笑い)イチロー選手がユニフォームの袖を上げてバッドを回すように、自分を平常心にもっていく。プレッシャーの中で、どの角度からでもキックを決めないといけないのだから、ものすごい集中力だよね。 ぼくも役者だから気持ちはわかるけど、そのポジションに立ったら誰も助けてくれないし、絶対に決めないといけない。チームのために、チームをサポートしてくれるスタッフのために、応援してくれる人たちのためにも、決めなくちゃいけない。考えると重圧に潰されるから、念じるしかない、みたいなところもあるのかもしれない。 忍者が似たポーズをするでしょ。精神集中のためもあると思うんです。左右非対称な体の中心に力を集中させる。脱力してリラックスさせているんだと思いますよ。――山下さんには、そういったルーティーンはありますか?山下:ありますよ。必ず仕事前に缶コーヒーを飲んでいます。脳に糖分を入れないと頭が回らないから。家でコーヒーを飲むときには、糖分はあまり入れないんです。でも仕事の時は必ず、糖分入りのアイスコーヒーですね。多い時には5本とか飲んじゃう。撮影で疲れて集中力がなくなってくると、糖分を入れたくなるんですよね。――いつ頃から続けているんですか?山下:缶コーヒーが出てすぐの頃かな。『太陽にほえろ!』(日本テレビ系)に出ていた時からコーヒーは飲んでいたけど、当時はまだ缶コーヒーがなくて。ボス(石原裕次郎)がキャンピングカーで来られていて、ぼくら新人もたまに「コーヒー飲むか?」って呼ばれて、ドリップして飲ませてくれたんです。 当時コーヒーは贅沢もので、家でドリップするようなおしゃれな人はいなかったので、インスタントコーヒーしかなかったの。これが本物のコーヒーかって飲んで。それからですね。眠くなったり、ぼうっとしてきたりしないように、自分でもコーヒーを作って置いてありましたね。飲んでシャキッとするように。――話は戻りますが、今までのラグビーの日本代表も、注目して見ていましたか?山下:見ていましたけど、負け試合が多かったですからね。今回は強かったですよね。だから、びっくりしましたよ。弱い時の全日本も知っていますから。それにぼくとしては、どうしても『スクールウォーズ』と重ねて見てしまうから、ぼくなりの実感としてすごいなって思うところはありますね。 以前、フランスで、フランスのナショナルチームではない下位のチームとやっていたんだけど、全日本はそれでも全然歯が立たなかったので、海外でラグビーを見るのはやめようと思ったからね、あまりの力の差に。もう早稲田と明治の試合だけ見ていた方が面白いなって、そういう風に思っていた時代もありましたよね、何十年か前ね(笑い)。 でも、今回の活躍を見てやればできるんだなって。諦めちゃダメなんだって思いました。南アフリカとの試合もそうだけど、最後の最後まで諦めないでやるというのは、言葉にするのは簡単だけど、そう容易なことじゃない。それを実現させたことで、見ている人に勇気と希望を与えたと思います。南アフリカ戦の最後の逆転のシーンでは、ぼくの中ではずっと『ヒーロー』(『スクールウォーズ』の主題歌)が流れていました(笑い)。【山下真司】1951年12月16日生まれ。山口県出身。1979年の『太陽にほえろ!』のスニーカー刑事役でテレビデビュー。主演した『スクールウォーズ』の熱血教師役で一大ブームを巻き起こし、ドラマ内の「俺はこれからお前たちを殴る」の台詞が注目を集めた。『くいしん坊!万才』で4年にわたりレギュラーを務めた。バラエティーやドラマなどで活躍している。
2019.03.11 15:52
世良公則 「歴史に名を残したいとは思わない。それより…」
世良公則 「歴史に名を残したいとは思わない。それより…」
 12月で60歳となる世良公則は、1977年に『あんたのバラード』でデビュー。彼のグループ「世良公則&ツイスト」は、同時期にデビューしたChar、原田真二とともに“ロック御三家”と呼ばれ、それまでアイドルや歌謡曲が全盛だったテレビの音楽番組に大きな風穴を開けた。 ステージ終了後は、袖で倒れ込むこともあるなど全力で駆け抜けた4年1か月。グループの解散が近づいた時、ドラマのプロデューサーに声を掛けられた世良は、役者としてもデビューを飾った。 1981年、火曜サスペンス劇場『さよならも言わずに消えた!』で原田芳雄、桃井かおりと共演。翌年には、『太陽にほえろ』で石原裕次郎とも共演を果たした。「原田さんには、芝居も音楽も、写真も絵も、アーティストがモノを表現するという意味では同じなんだということを。裕次郎さんには、人に何をいわれようと、“俺は俺”という信念を貫くことの大切さを教えていただきました。 ある時、裕次郎さんが、『レコードができたら持っておいで』といってくださったことがあって。俺のことを『ミュージシャン・世良公則』という目で見てくれたのがすごく嬉しくて、その言葉を真に受け『ボス、できました』ってアルバムをお渡しすると、にやっと笑って、『実は俺もレコーディングなんてことをしたことがあってね』といって、アメリカのジャズマンと一緒に作ったアルバムをくださったんです」 本当のスターは、俺じゃなくて原田さんや裕次郎さんですからという世良だが、どんなに謙遜してもこれまでの華々しい実績から周囲が“あの世良さん”と見るのは仕方がない。 しかし──世良が望むのは、どんな時でも、どんな相手でも、相対すれば五分と五分の関係。壁を作らず、真正面から、今、目の前にいる“この世良さん”に思いっきりぶつかってきて欲しいと呟く。そうすれば、シャワーを浴びるようにその気持ちが身体の中に入ってくるはずだから、と。「やっていることは、今もデビュー当時も変わらない。好きな歌を作って、ギターを弾いて、歌う。マイクスタンドがあったら回すしね。違うのは、変に構えず、今あるように、そこにいるということを心掛けていること。 俺にとっては、こうやって人と喋っていることも、飯を食べることも、歌を歌うことも、陶芸をすることも、息を吸って吐くのと同じ自然体でのことなんです。歴史に名前を残したいとは思わないし、俺が死んだ時に、誰かが、『世良さんって、真っ白なキャンバスにずっと一本の線を引き続けて、突然、いなくなっちゃったよね』といってくれればそれでいいと思っているんで」 ライブでは、デビュー当時と少しも変わらない不敵な笑みを浮かべてステージに向かった世良公則は、今も現在進行形。枠のないキャンバスに、右肩上がりの線を引き続けている──。◆世良公則(せら・まさのり):1955年、広島県生まれ。1977年、『あんたのバラード』(世良公則&ツイスト)でデビュー。1978年『銃爪』でオリコンシングル年間1位を獲得。1981年ツイスト解散後はソロでの音楽活動を開始するほか、俳優としても活躍し第10、22回日本アカデミー賞助演男優賞を受賞。アニバーサリー・イヤーとなった今年、ライブで全国を回っている。取材・文■工藤晋 撮影■アライテツヤ※週刊ポスト2015年11月6日号
2019.03.11 15:53
藤竜也 ヒゲを生やした理由とTVが持った圧倒的影響力語る
藤竜也 ヒゲを生やした理由とTVが持った圧倒的影響力語る
 1941年生まれの俳優・藤竜也は、人から勧められるまま映画界に入り役者となったが、人気を得たのはテレビドラマがきっかけだった。映画に代わって影響力を増し始めた時代のテレビドラマについて藤が語った言葉を、映画史・時代劇研究家の春日太一氏の週刊ポスト連載『役者は言葉でできている』からお届けする。 * * * 藤竜也は1962年、有楽町でデートの待ち合わせをしている時に日活からスカウトされ、大学を辞めて映画界に入る。「僕はドラ息子でしたから、先なんて考えたことはロクになかった。映画を見るのが好きだから、映画俳優になるのもいいんじゃないか。その程度です。最初は訳が分からないから、歩き方や芝居の仕方は石原裕次郎さんのマネをしていたんですが、できやしないんですよね。 何年かして、深刻さが分かってきた。大学を辞めて、このまま通行人の役ばかりやっていたらマズイんじゃないかって。 それで撮影がない時はセットを覗いて他の俳優の演技を見学したりしましたが、1シーンだけ見たって分かりゃしないんだよ。俳優というのは、自分の役を全て精密にデザインしてきているわけですから。それでも何かを分かろうと必死でした。 ヒゲを生やすようにしたのも、その頃です。顔がつまらないから、少しでもくっつければ、少しつまるかな、と。拙いことだけど、なんとか浮上しなくちゃと思ってやったんですよ。  通行人の役をしなくても済むようになってからは、撮影所にアクションの道場があって、仕事がない時はそこで殴られる稽古をしていました。撮影所にトレーニングに行っていた。何かしていないと、何をやってるんだか分からなくなって不安だから。体を痛めながら、次の仕事が来るのを待っていました。二か月も三か月も音沙汰のない状態で耐えるには、何かをやっていないとダメだったんです」 1971年、日活は撮影所を一時閉鎖して製作部門を大幅に縮小、ここで藤はフリーになる。そして1973年、久世光彦演出によるTBSドラマ『時間ですよ』で、毎回スナックの片隅に座る謎の男を演じ、人気を博する。「日活を離れた時は、えらいことになったと思いました。潰しのきくような仕事ではないから不安でね。それから数年、テレビドラマに出るようになって、業界の人に名前くらいは知られていたんだと思う。それで久世さんから話が来ました。最初は『おはよう』というホームドラマで、後の『時間ですよ』と同じような役をやりました。『時間ですよ』は視聴率が三十パーセントを超えていましたが、それがどういうことなのかは最初は分からなかった。ところが、放送から一か月も経つと、町を歩いたらすれ違う人に振り返られるようになりました。映画を十年やったのに、そんなことはなかったわけですから。 あれは久世さんが作ってくれた役で、僕は言われた通りに演じました。セリフがたまにあると、『しゃべるまでに、もっと時間を置いて』と言われて。だから、周りが『いつ喋るんだ、この野郎』と思うくらい、一つのセリフを口に出すまで時間をかけたという記憶があります。 あの当時のテレビドラマのスタジオ、特に久世さんのエンターテインメントの世界というのは物凄く力がありました。世の中の風俗の流れに追随するんじゃなくて、風俗を引っ張るくらいの影響力があった。現場に凄く自信のあった時代でした」■春日太一(かすが・たいち)/1977年、東京都生まれ。主な著書に『天才 勝新太郎』『あかんやつら~東映京都撮影所血風録』(ともに文藝春秋刊)、『なぜ時代劇は滅びるのか』(新潮社刊)など。本連載をまとめた『役者は一日にしてならず』(小学館)が発売中。※週刊ポスト2015年10月30日号
2019.03.11 15:54
浅丘ルリ子 「私の履歴書」に書かなかったTV局勤務の元恋人
浅丘ルリ子 「私の履歴書」に書かなかったTV局勤務の元恋人
《この連載も終盤に近づくと湿っぽい話が多くなる》 7月1日から始まった浅丘ルリ子(75才)による日本経済新聞の人気連載『私の履歴書』もいよいよ終了した。小林旭(76才)からのプロポーズ、石原裕次郎さん(享年52)との兄妹仲、石坂浩二(74才)との出会いと結婚、そして渥美清さん(享年68)との最後の共演…そんな赤裸々告白が高い関心を集めてきた。芸能関係者は語る。「これもルリ子さんならではのことでしょう。交流関係が広かったのはもちろんですが、ルリ子さんは相手の懐に入ったつきあいのできる人。たとえば大原麗子さん。彼女への弔辞でもわかりますが、ルリ子さんは30年間彼女と本当の姉妹のようにつきあっていました。 長門裕之さんや裕次郎さんとも本当の家族のようなつきあいだった。そんなルリ子さんの口から語られることは通り一遍の話ではなくいわば真実の芸能史。だからこそ、ここまで読者を惹きつけたんだと思います」 14才のデビュー以降浅丘が出演した映画は158本にのぼる。名だたる名優と時を過ごし、恋をして、友情の面倒は厭わず、先輩には妹のように後輩には姉のように慕われた。 浅丘と破局後の小林と結婚した美空ひばりさん(享年52)にも妹のように永くかわいがられた。ふたりの結婚後、浅丘にひょんな仕事が舞い込んだことがきっかけだったという。《私がリポーター役としてひばりさんと旭さんの新居を訪問し、お節介にも熱々な新婚生活をインタビューさせてもらうという特集記事だった》(『私の履歴書』7月11日) 派手なヒョウの毛皮で訪ねた浅丘をひばりさんはじっと見ていたという。《ひばりさんは、私と旭さんが恋人同士だったことをもちろん知っていた。だからこそ私に気を使っていたんだと思う》 その後、ひばりさんは浅丘のことを「のぶちゃん」と呼び、実家に泊まるまでの仲になった。 包み隠さず描かれた当時のエピソードだが、浅丘がこの『履歴書』に書かなかったある男性との恋があったという。芸能レポーターの石川敏夫氏がこう振り返る。「石坂さんとの結婚は詳細に描かれていてまるで当時を思い起こさせるようでしたが、“あの彼”のことは書かれていませんでした。実は当時、ルリ子さんにはテレビ局に勤める別の意中の男性がいたんです。周知の恋人でした。でもすれ違いが多く、ギクシャクしてしまっていた。その関係を清算しようという時、石坂さんから熱烈なアプローチを受け、ルリ子さんは結婚を決意したそうです」 まだまだ彼女の言葉は聞き足りない。※女性セブン2015年8月13日号
2019.03.11 16:07
近藤真彦 野村義男について「人間としてカッコいい」と尊敬
近藤真彦 野村義男について「人間としてカッコいい」と尊敬
 近藤真彦。51歳。1979年『3年B組金八先生』の星野清役でデビューし、翌年発表の初シングル『スニーカーぶる~す』は100万枚を超える大ヒット。田原俊彦、野村義男との「たのきんトリオ」で1980年代アイドル全盛期を牽引したマッチも、今年末で芸能生活35周年を迎える。「80年代ですか? 正直いって記憶もイメージも、僕には一切ないんです」 石原裕次郎や美空ひばりの死と共に昭和が終わり、アイドル黄金期とも称された1980年代。10代から大人に囲まれ、孤独と闘ってきた近藤は、後ろを振り返る暇さえなく、秒単位のスケジュールに日々追われていた。 その後、バブルから失われた20年と、日本が昭和から平成への移行に苦しむ中、こんなに上手に大人になった50代も珍しいかもしれない。「そうかな。僕はそうは思いませんね。この35年、いろんな仕事をしてきたけど、何ひとつ極めてないでしょ? 人気的には頂点に立ったと思ったこともあったけど、むしろ『あ、自分はもうトップじゃないな』という、その後の転落の感覚の方が強い。どうやって山を下りればいいのか、モデルになる先行者が周りにはいませんでしたから……」 そんな時、彼はレースと出会う。1984年に国内A級ライセンスを取得し、1994年にはルマン24時間耐久レースに参戦するなど、新たな挑戦を始めた。「要するに、逃げたんです。初めは単なる趣味だったけど、スポンサーとの関係でも芸能界とは全く違う責任を負わされ、結果が出なければ即クビを切られる。そんな最も速い者だけが認められるヒリヒリした世界で常に勝負していたくて、のめり込んでいきました。 その結果、チームを持つこともできたけど、たぶん僕は皆さんが思うほどイイ人間じゃないですよ。イイところがあるとすれば人の悪口をいわないことくらいかな。『この芸人は最近面白くない』なんて、うちの奥さんのような素人がいうと本気で怒るし、昔はヨッちゃんをあれこれいうヤツが許せなかった。でも、野村義男ほど自分の好きなことを極めた男も珍しいし、人間としてカッコいいなあって、僕は尊敬しています」 近藤はそう謙遜するが、2000年に立ち上げたチーム「KONDO Racing」では、監督としても着実に実績をあげつつある。「僕は経済的には最悪な時期にレースの世界に入ったし、チームの運営上、経済情勢とは無関係でいられない。結局、問われているのは当人の出方なんです。物事を時代や環境のせいにするのは簡単だけど、ピンチにこそチャンスを見出し、ここぞという反転局面を捕まえに行くくらいの逆張りの発想がないと、結果的には勝ち残れないんだと思う。 幸い僕はそうした意識を共有する友人にも恵まれていて、ヨッちゃんや黒柳徹子さんのように細く長く付き合う人が多い。もちろん事務所の長男として後輩たちの応援はしますけど、この歳まで頑張っていると『この10人さえいてくれればいい』という存在がだんだん見えてくるものなんです」◆近藤真彦(こんどう・まさひこ):1964年神奈川県生まれ。1980年『スニーカーぶる~す』でデビュー。1981年『ギンギラギンにさりげなく』で日本レコード大賞最優秀新人賞、1987年『愚か者』で同大賞、2010年『ざんばら』で同最優秀歌唱賞等。7月19日には伊達歩こと伊集院静作詞の名曲を集めたセルフカバーアルバム『三十五周年 近藤真彦×伊集院静=二十四曲』を発表。同時にスタートした全国ツアーでも大人・近藤真彦の魅力を存分に聞かせている。1994年に結婚し、現在は1児の父。取材・文■橋本紀子※週刊ポスト2015年8月7日号
2019.03.11 16:07
小林旭と交際、裕次郎とは兄妹…浅丘ルリ子の衝撃告白が話題
小林旭と交際、裕次郎とは兄妹…浅丘ルリ子の衝撃告白が話題
 1956年3月1日にスタートした、日本経済新聞の連載『私の履歴書』。著名人が出生から連載時に至るまでの半生を描く履歴書風の自伝で、これまで首相在任中の岸信介(享年90)や、マーガレット・サッチャー(享年87)など外国人が登場したり、今、時の人になっている建築家の安藤忠雄氏(73才)が登場したこともある。そして現在連載中なのが浅丘ルリ子(75才)だ。 満州で生まれ、タイ・バンコクで迎えた終戦やその後の収容所生活などの幼少期、そして、映画『緑はるかに』のオーディションでヒロインに抜擢され、芸能界でスターの階段を駆け上がっていく様が描かれている。そんななか、「職場恋愛」と題した7月7日の連載第7回で、浅丘はかつて交際していた小林旭(76才)のことを語り話題になっている。《一目会ったときから私は恋に落ちていた》。14才で銀幕デビューしてから3年後の1958年に、小林と出会ったときの衝撃をそう語った浅丘。《会っているだけで楽しかった》《若い2人はほとばしる情熱を抑えきれずにいた》「運命の人」と感じたふたりはすぐ両思いになり、ほとんど毎日一緒に過ごしたという。当時を知る芸能関係者がこう話す。「ふたりの交際は当時の映画関係者の間では周知の事実でした。それでも“自然ないい演技につながるから”と、ふたりを恋人役で何度も共演させたんです」 これまでも同連載では往年の大女優がかつての恋愛を語ってきた。有馬稲子(83才)は映画監督・市川昆さん(享年92)との不倫と堕胎を明かし、別れ際の修羅場まで暴露。佐久間良子(76才)は鶴田浩二さん(享年62)との不倫を告白したこともあった。 浅丘の赤裸々告白も衝撃的だ。《後日談だが、旭さんから衝撃的な事実を知らされた。実は父に「信子さん(注・浅丘の本名)をお嫁にください」と直訴したことがあるというのだ。(中略)「残念ながら、うちの娘はまだ嫁にはやれません」父ははっきり拒否したという》 さらに浅丘は、小林と出会う直前の1956年に初共演した石原裕次郎さん(享年52)についてもこう語る。《裕ちゃんは6つ上。「頼りがいのあるお兄さん」という感じでまだ恋愛感情はない》 小林と同じように裕次郎さんとも撮影の合間によく食事をともにし、酒を飲み交わし、いつも一緒にいたという浅丘。しかし裕次郎さんとは、最後まで「兄妹みたいな仲」だったという。※女性セブン2015年7月30日・8月6日号
2019.03.11 16:09
重病説流れた野村克也 食欲睡眠欲すごいと完全復活アピール
重病説流れた野村克也 食欲睡眠欲すごいと完全復活アピール
 東北楽天ゴールデンイーグルスの監督を辞したのち、野球解説者、評論家として活躍していた野村克也氏は、昨年10月に突然公の場から姿を消した。各メディアでは病気療養のためと報じられ、重病説も出た。 退院後の姿を報じたのは3月27日に発売された『FRIDAY』だ。沙知代夫人の肩に手をかけ、〈一歩一歩かみしめるように歩く〉姿を撮影し、知人の発言として〈昨年末まで集中治療室に入っていたため20kg近くやせてしまった〉と伝えられた。 しかし本誌の取材会場に現われた野村氏は、しっかりとした足取りで入室し、記者に「おぅ」と声をかけてソファにどっかと腰をおろした。確かに少しほっそりしたが、顔色はいい。「写真誌は大袈裟や。メスを入れたわけでもなく、ただ1か月入院しただけで、痩せたのは8キロ。退院してから少し戻っているしね。1か月も入院すりゃ誰でも痩せますって。ダイエットしたけりゃ入院すればいいよ。病院食は食えたもんじゃないから」 憎まれ口を叩き、ニヤリと笑う。「上(半身)はそうでもないが下が細くなった。ズボンがガバガバ。まァ、80年(今年6月で傘寿)も生きてりゃどこかは悪くなる」 入院のきっかけは毎年受診している健康診断だった。「中曽根(康弘)さんから紹介された病院で50歳の時から毎年(健診を)受けている。そこで引っかかっちゃった。自覚症状? 何もない。痛くも痒くもなかった。医師からは“石原裕次郎さんと同じ病気(解離性大動脈瘤)。ただ野村さんは幸運です。裕次郎さんは発見が遅かったがあなたは早かった”といわれた」 早期発見で手術を受けることもなく済んだ。「もう大丈夫。食欲、睡眠欲はすごい」と完全復活をアピールする。しかし沙知代夫人は心配なようだ。「家でテレビばかり見ていたら、サッチーが“(健康のために)歩け、歩け”ってうるさいんだよ。私は引退したときの会見でもいった通り、“金輪際汗はかかない”主義なんです。長生きする動物を見てご覧なさい。万年生きるというカメは普段ジーッとして動かないでしょう。あれがいい。カメ理論だよ。最近はジョギングをする人も多いが、あれはかえって心臓に負担をかけちゃう」 今後も「カメ理論」を貫くという。「平均寿命まで生きたんだ。後も動かずにやりますよ。趣味もないしね。ゴルフもしない、旅行も大嫌い。強いていえば食だね。最近は美味しい店の情報を集めている。自分で食べて美味しいと思う店を6軒に絞って、そこをローテーションして回っています。サッチーは一切料理をしないから、台所がいつも綺麗なんだ。珍しい家だよね」※週刊ポスト2015年4月17日号
2019.03.11 17:02
故山口洋子さん スターになり散財する五木ひろしを叱った夜
故山口洋子さん スターになり散財する五木ひろしを叱った夜
 9月6日、作詞家で直木賞作家の山口洋子さん(享年77)が、呼吸器不全のため亡くなった。昨年1月に誤嚥性肺炎を患い、この半年は入退院を繰り返す生活を送っていたという。 17才で芸能界入りした山口さんは19才でホステスに転身。東京・銀座に高級クラブ『姫』をオープンし、当時、“銀座最年少ママ”として一世を風靡した女性だった。「6坪ほどの小さい店内に、石原裕次郎、勝新太郎、長嶋茂雄、吉行淳之介など各界の超一流どころが集まる華やかな店でした。友人の歌手・神楽坂浮子さんから依頼されて銀座ホステスの哀愁を描いた歌を書いたのをきっかけに、作詞家としても活動するようになったんです」(山口さんの知人) その後、中条きよしの『うそ』、石原裕次郎の『ブランデーグラス』と、作詞を手がけた曲は次々と大ヒット。中でも、彼女が見いだしたいちばんの“出世頭”が、五木ひろし(66才)だった。「1970年、まだ無名の五木さんと出会った山口さんは、彼の才能を見抜き、全力でバックアップしたんです。彼女の作詞した『よこはま・たそがれ』がオリコン1位になったとき、五木さんは仕事場から山口さんに電話して、“先生のおかげです…”と泣き続けたそうです」(前出・山口さんの知人) 以後、『夜空』『ふるさと』と、五木・山口コンビの躍進が続くが、いつしか2人の間に溝もできていった。「五木さんはスターになった途端、どんどん生活が派手になったんです。高級外車を乗り回して、いろんな店で散財するようになって…。山口さんは、銀座で数多くの男性を見てきたかたです。金にものをいわせる男からは、人が離れていく、ということを誰よりも知っていました。 だから、ある夜、五木さんを叱りつけたんです。“本当のスターは、自分がキャデラックに乗ることじゃない。周りのスタッフを何台キャデラックに乗せられたか、ということでしょう!”って」(別の山口さんの知人) 山口さんの訃報に触れた五木は、メディアの取材に対し、「私の命のある限り、山口さんと共に歩んでいきます」とコメントしている。※女性セブン2014年10月2日号
2019.03.11 15:58
美輪明宏が「ホンモノよ!」とべた褒めの『花子とアン』俳優
美輪明宏が「ホンモノよ!」とべた褒めの『花子とアン』俳優
 高視聴率が続くNHK朝ドラ『花子とアン』。そのナレーションを務めるのが美輪明宏だが、ドラマでは、美輪のお気に入りの役者がキャスティングされている。 それは蓮子が夫・伝助との満たされない結婚生活に嫌気が差し、文化サロンを開くようになった際に、彼女に近づく新聞記者・黒沢一史役を演じる木村彰吾(34才)だ。「蓮子さんが伝助さんのことで苦悩しているシーンには、必ずといっていいほど、登場する人物なんですけど、あまり見たことがない役者さんで…。すごく気になっていました」『花子とアン』を毎朝、欠かさず見ているというファンがこう語るほど、目が離せない存在なのだ。 実は、木村は、これまで本誌が美輪との親密ぶりを報じてきたお相手だ。 2001年の舞台『毛皮のマリー』での共演をきっかけに出会ったふたり。その2年後には、仲間由紀恵(34才)が演じる蓮子にホレる年下男・宮本を演じる中島歩(25才)と同様、舞台『黒蜥蜴』(くろとかげ)で自分の愛人役に選ぶ。これは高嶋政宏(48才)と並ぶ準主役級で、デビュー間もない彼の抜擢は異例のことだった。 以来、木村は『椿姫』や『双頭の鷲』など数々の作品で、美輪の恋人役を演じてきた。 身長180cmの正統派二枚目の木村を美輪は「裕ちゃん(石原裕次郎)より脚が5センチ長いのね」と語り、CMで共演した際には「この子、ホンモノよ!」とべた褒め。 さらに2007年2月、美輪が江原啓之とともに司会を務めていた『オーラの泉』(テレビ朝日系)に木村がゲストとして出演した際には、江原は「美輪と木村は前世で夫婦だった」と明かしたことも。 このころ、本誌は木村が、かつて美輪が乗っていたワインレッドのジャガーを乗り回している姿をキャッチしている。「新車で購入すると1000万円以上する車ですからね。当時、まだ駆け出しの木村さんが自ら購入するのは難しい。車を譲り受けるほど、彼は美輪さんのお気に入りなんです」(美輪の知人) 美輪のサポートは私生活だけでなく、仕事にまで及ぶ。「2005年11月、北野武監督(67才)作品『TAKESHIS’』で、ふたりは共演していますが、これは美輪さんが北野監督に推薦状を書いて実現したそうです。今回の朝ドラでの“共演”も美輪さんが木村さんの出演を後押ししたといわれています。出番が多いのも、スタッフが美輪さんに気を使っているからなんて声も聞こえてくるほど」(NHK関係者)※女性セブン2014年7月10日号
2019.03.11 16:09
キンタロー。らモノマネ芸人が売れるタイミングを芸人が分析
キンタロー。らモノマネ芸人が売れるタイミングを芸人が分析
「じぇじぇじぇ!」「倍返しだ!」――この2つの言葉が、今年の流行語大賞を争うと見られているが、今年の初め頃に大ブレイクした「フライングゲット!」も忘れてはならないだろう。 もともとは、2011年のAKB48のヒット曲のタイトルだが、お笑い芸人のキンタロー。が前田敦子のマネをするときに使う言葉で、いつのまにか1つのギャグになっていった。前田敦子のメディア露出自体は減ったのに、なぜ“偽物”であるキンタロー。が大ブレイクし、「フライングゲット!」が流行ったのか? 田原俊彦のそっくりさん芸人で、『あまちゃん』にも「トシちゃん似の男」として出演した原俊作(41)が、同じ芸人という立場から分析する。「モノマネ芸人はご本人の露出が少なすぎてもオファーが少なくなりますが、多すぎるともっと来ません。ご本人が『最近、あまり見なくなったね』と思われているときのほうが、不思議と仕事が増えますね。 キンタロー。さんの大ブレイクは、前田敦子さんがAKB48を卒業して、女優へ転身したタイミングと大いに関係があると思います。女優になれば、テレビスターであるアイドルとはまた違う立ち位置となり、必然的にドラマ放送中以外はテレビにあまり出ませんからね」 たしかに、AKB48時代と比べれば、前田敦子をテレビで見る機会は減っている。キンタロー。が、“前田敦子の穴を埋めた”というわけだ。「たとえば、山本高広さんが織田裕二さんのモノマネでブレイクしたときも、織田さんご本人を見る機会が少なかったタイミングだと思います。俳優は、ドラマ放送中の決まった時期以外は、テレビで見かける機会も減りますから」(同前) 考えてみれば、はるな愛が松浦亜弥のモノマネで話題になった頃も、本人の露出は徐々に減っていた時期だった。「昭和の大スターで、故人の美空ひばりさんや石原裕次郎さんのそっくりさん芸人へのオファーは今も絶えません。もうテレビでは会えないお2人に会えた感覚になれるからでしょう」(同前)
2019.03.11 16:01
銀座の「伝説の黒服」 誕生日には100本のシャンパンが空いた
銀座の「伝説の黒服」 誕生日には100本のシャンパンが空いた
 夜の街・銀座。女たちが主役の世界で、黒衣に徹しその裏を支える黒服たち。裸一貫で入店し、ボーイ、店長、幹部、そして社長へと銀座の夜を極めた「伝説の黒服」のひとり、GSK副会長で元ロートレック代表取締役社長の奥澤健二氏が、その光と影を語った──。 * * * 16歳のとき、当時働いていた店で石原裕次郎さんが“最近、頑張ってるな”と。突然のことにもう緊張して声も出ないよね。そうしたら、上着から万年筆を取り出して握らせてくれた。大統領が愛用したというシェーファー社のものでした。ものすごい励みになりましたよ。それから、立場を超えた距離感、親近感を感じられる夜の街の魅力に引き寄せられていきました。 私は、皿洗いから始まって20年で独立して……もう半世紀はこの街に携わってるね(笑い)。バブルの頃には、6店舗経営していました。誕生日には100本ものシャンパンが空いて、1日数千万円売り上げ、もう私自身勘違いしそうな時でした。あの時期は大金を使う人ばかり重宝されて、昔ながらのお客様からお叱りを受けたこともあります。 粋なお客様は、例えばそれほど使っていないお客様に対して黒服やホステスが丁寧に対応する姿を見て「この店はシッカリしている」と評価する。この価値観を持てるのが本当のステータス。そういう方に店の品格は支えられてきたんでしょうね。 以前、ホステス引き抜きの件で揉めて、ある店同士が路上で一触即発の事態があったんです。そのときロールスロイスから降りてきたある社長が瞬時に空気を読んで「店行って飲むぞ」と。その一言で場がおさまったこともありました。 事実は小説より奇なりというか、かっこいいお客様も多かった。最近はそういう方が少なくなった気がして寂しいですね。 私は一線を退いたいまも週2~3回銀座にいます。ずっと離れられないんだろうね(笑い)※週刊ポスト2013年6月7日号
2019.03.11 16:23
力道山刺殺、裕次郎披露宴、美空ひばり塩酸事件現場の今の姿
力道山刺殺、裕次郎披露宴、美空ひばり塩酸事件現場の今の姿
 冷めやらぬ古地図ブーム。タモリが古地図を片手に散歩する『ブラタモリ』(NHK総合)を火付け役に、江戸の古地図からはじまったその人気はさらに広がりをみせている。特に、ここ数年は、昭和30年代の地図が人気で、当時の東京で起こった事件現場の“いま”を歩くのが流行しているという。 そのなかでも人気のスポットが、以下の3つの事件現場。現在、その場所に何が建っているのか、紹介しよう。■力道山刺殺事件(ホテルニュージャパン「ニューラテンクォーター」・千代田区) 戦後のヒーロー・力道山の刺殺事件は昭和38年(1963年)12月8日に起きた。場所は広さ660坪を誇り国際的社交場として知られたナイトクラブ「ニューラテンクォーター」。暴力団組員と口論になり腹部を刺され入院、1週間後に39歳で死亡した。ホテルニュージャパンは昭和57年(1982年)の火災事件で閉鎖、現在はプルデンシャルタワーに。■裕次郎700万円披露宴(日活国際会館・千代田区) 昭和35年(1960年)、石原裕次郎と北原三枝の結婚披露宴が日活国際会館にて行なわれた。費用は700万円、力道山や長嶋茂雄ら400人が出席した。建物は10年前に解体されるまで日比谷の名所であった。現在は五つ星ホテルのザ・ペニンシュラ東京に。■美空ひばり塩酸事件(国際劇場・台東区) 昭和32年(1957年)1月、浅草の国際劇場での公演中、舞台を観ていたファンから顔をめがけて塩酸入りのビンを投げつけられ、胸と顔に火傷を負った。当時ひばりは19歳、犯人も19歳の少女で熱烈なファンだった。動機は、面会できないことへの恨み。国際劇場は松竹歌劇団の公演会場として東京観光の王道だったが、30年前に閉鎖。現在は浅草ビューホテルが建つ。撮影■藤岡雅樹※週刊ポスト2013年5月31日号
2019.03.11 16:26
長嶋茂雄氏がこれまで国民栄誉賞もらえなかった複数理由とは
長嶋茂雄氏がこれまで国民栄誉賞もらえなかった複数理由とは
 長嶋茂雄氏(77)と松井秀喜氏(38)の国民栄誉賞の受賞が決まった。まだ若い松井氏の受賞には議論が百出しているが、ミスターには異を唱える者は滅多にいない。 贈賞を決めた安倍首相自身、「むしろ遅すぎた」とコメントする今回の受賞。そもそも、「国民的スター」の座をほしいままにしてきた長嶋氏が、なぜ今まで受賞できなかったのか。それはこれまで、ミスターが悉く受賞のタイミングを逸してきたという事情がある。 まず、賞が制定されたのは、王貞治氏が756号本塁打で世界記録を達成した1977年。これは「長嶋引退」の3年後だ。国民栄誉賞は、世界的な大記録達成時や、引退や死没などの節目で贈賞される傾向にあるが、長嶋氏の場合、引退という“節目”の際には賞そのものがなかった。 その後も長嶋氏には機会が巡ってこない。巨人監督として優勝5回、日本一2回に輝くが、V9の川上哲治監督には記録上遠く及ばない。ならば世界で金メダルをとって、とばかりに2004年のアテネ五輪で代表監督に就任するが、大会直前に病に倒れてしまった。 だが、長嶋氏自身は受賞を渇望していた。そこには「常に意識していたOに対する、Nの強烈なライバル心があった」と語るのは、ある球界重鎮だ。「王が第1号となった国民栄誉賞は、何としても自分も欲しかったはずだ。長嶋の王へのライバル心は凄まじいものがある。 長嶋は1963年、打率、打点でトップながら本塁打だけは王に3本足らずに三冠王になれなかったことがある。その翌年、今度は王が三冠王を狙う立場になった。 王は本塁打、打点で断トツだったが、打率だけは中日の江藤慎一と1厘差で最後まで争っていた。そこで長嶋は自分より先に王が三冠王になることのないよう、名古屋遠征の時に江藤を食事に誘い、激励したことがあるほどだ」 また、古参の記者によれば、ミスターはこうも語っていたという。「美空ひばりが死後に受賞した時には、“まだもらってないのは裕ちゃん(石原裕次郎)とオレか”と漏らしていた」 ようやく叶った悲願。長年の番記者で、長嶋氏と親しい柏英樹氏が受賞のお祝いコールをして、「遅すぎましたね」というと、「いいじゃないか。若い松井と、先のない私がもらうのが丁度いいんだ。ありがたいことです」と喜んでいたという。※週刊ポスト2013年4月19日号
2019.03.11 16:51
著書で露木茂アナに怒りぶちまけた松山ケンイチに疑問の声
著書で露木茂アナに怒りぶちまけた松山ケンイチに疑問の声
 2月に出版された松山ケンイチ(28才)の初のエッセー本『敗者』(新潮社刊)は赤裸々な内容が話題になっている。その中で、今<十二月二十八日>のエピソードが波紋を広げている。「どうして今さらそんなことをわざわざ書いたのか理解できないですよ。不満があったのなら直接言えばよかったのに…」(芸能関係者) それは2011年12月に行われた『第24回日刊スポーツ映画大賞・石原裕次郎賞』授賞式の日のこと。松ケンは、映画『ノルウェイの森』『GANTZ』シリーズなどで主演男優賞を獲得した。 しかし彼は、この日の光栄な思いもすぐに崩れ去ったという。それは授賞式の司会者の質問が<受賞に関する事ではなく、プライベートな質問だった>からだと綴っているのだ。 本の中で司会者の名前は伏せられているが、それが元フジテレビアナウンサーの露木茂(72才)であることは明白。「授賞式で露木さんが松山さんにした質問は、当時、小雪さんが臨月ということをふまえて、“パパになることで意識は変わりましたか?”というものでした。松山さんは“結婚も親になることもすごく大きなことだった”とコメントしているんですが、何がNGだったのかさっぱりわからないですね」(前出・芸能関係者) 松ケンは、本の中で<絶対に記事にはなるが本人自身は絶対に答えたくないような質問><渥美清さんから続く錚々たる俳優の名が連なるこの賞の重みは、司会者の低俗な質問のおかげで失われたような気がした>などと怒りをぶちまけた。 これらの松ケンの批判に対して露木はどう思っているのか? 話を聞きに行くと、露木は本に自分のことが書かれていることさえ知らず、呆然。「その後も松山さんにお会いしましたけど、別にどうってこともなかったんですけどね…」と露木は冷静に大人な対応でこう反論した。「何の司会でもそうだけどね、その時点での、リアルタイムで起きていることは、プライベートでもね、そういうことを含めて反映させながら質問をすることは当然ですよね。そういうことに触れないで司会をするんだったら、ぼくじゃなくてもいいでしょ?(笑い)ぼくはぼく流で仕事をする。今という時点での司会を大事にするだけですから」※女性セブン2013年3月28日号
2013.03.21 18:12

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「18歳女子大生」インタビュー【第2回】吉川赳議員はホテルで「揉んじゃって御免なさい」「おじさんムラムラしちゃった」
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背番号「12」を付けていた柴田貴広(現・大東文化大3年。撮影/藤岡雅樹)
佐々木朗希・高校3年の夏【前編】岩手大会決勝で投げた「背番号12」の思い
週刊ポスト
「選挙に強い」後継者は?(時事通信フォト)
安倍晋三・元首相の後継者の条件 選挙に強く、“担がれやすい資質”を持つ政治家
週刊ポスト
「同伴的なので」と自分の意思を伝えた吉川議員
「18歳女子大生」インタビュー【第3回】吉川赳議員から大量の「LINEメッセージと電話」
NEWSポストセブン
次なるステップは?(時事通信フォト)
元横綱・白鵬、周到すぎる宮城野部屋の「継承」で見えてきた“理事の椅子”
週刊ポスト
「保守路線の継承者」として名前が挙がる高市早苗氏(時事通信フォト)
安倍晋三元首相の政策後継者 保守路線は高市早苗氏、外交は萩生田光一氏が受け継ぐか
週刊ポスト
幹部補佐になっていた
「好きで好きで仕方なかったから」刺されたホスト、歌舞伎町で「幹部補佐」に昇進していた
NEWSポストセブン
松田聖子を目撃
松田聖子、沙也加さんの初盆に“もう1つの遺言”と「新しいお墓」への願い
女性セブン
ラガーさん
ラガーさん、再び甲子園から姿を消す 本人が明かした「チケットが高すぎる!」の叫び
NEWSポストセブン
中林大樹の姿を目撃
竹内結子さん三回忌 中林大樹が子供のために決断、家族3人新生活は「海辺の街」で
女性セブン
胃腸薬服用の注意点は?(イメージ)
名医が自宅でのんでいる【とっておきの市販薬】「解熱鎮痛剤」と「鼻とのどの薬」
女性セブン