「あの子を応援しましょう」
母親がそう説得し続けたこともあり、勝也さんの心は徐々に氷解していく。雪解けの決定打は2000年10月、NHKの連続テレビ小説『オードリー』に蔵之介が映画俳優役で出演したことだった。
「この時の勝也さんの喜びようはすごかった。店内に『オードリー』のポスターをいっぱい貼っていましたから。それを見て、近所の人が、“あれは佐々木さんとこの息子さんだったのか!”と気づいてね。お父さんは本当に嬉しそうでした」(前出・近所住民)
当時、勝也さんは『オードリー』という日本酒を期間限定で販売し、佐々木酒造創業以来の大ヒット商品になった。蔵之介も時間を見つけては実家に帰るようになり、共演者に佐々木酒造の酒を配るのが恒例になった。
2011年には日野自動車のCMで父子共演も果たしている。勝也さんの遺影は、この時撮影されたものだった。
勝也さんの闘病が始まったのは2年ほど前。肺がんと肺気腫を患い、入退院を繰り返した。売れっ子俳優になり多忙を極める蔵之介だが、できる限り父の看病にあたった。
「蔵之介さんは撮影を終えると、夜中に自ら運転して東名高速を飛ばして、勝也さんが入院する京都の病院に駆けつけることもしょっちゅうでした。彼が来ると病院の看護師や医師が大はしゃぎで、何枚もサインを頼まれるんだそうです。“なんのために病院に来たのかわからへん”て苦笑いしてました(笑い)」(前出・佐々木家の知人)
晩年の勝也さんは酸素ボンベが手放せず、退院時でも自宅から出ることはままならなかった。
「蔵之介さんの舞台を見に行くこともできなくなって。観劇したという知人に会うたびに、“どうでしたか? 息子はうまいことやってましたか?”って聞くんです。いつだって息子さんのことを気にかけていました」(前出・佐々木家の知人)
兄と弟はすでに結婚して子供もいるが、蔵之介はいまだ独り身。勝也さんは病気になってから、いっそう蔵之介の結婚を気にしていたという。
「お孫さんが見たいっていう気持ちもあったんでしょう。お母さんが都内にある蔵之介さんのマンションの合鍵を持っているんです。ある時、こっそりマンションを訪れて、女性ものの歯ブラシや化粧品がないかと探したけど、一切見当たらなかったって。“このままじゃ一生独身やわ”ってこぼすと、お父さんも“まいったなあ”って(笑い)」(別の佐々木家の知人)
勝也さんが亡くなった10日、蔵之介は海外の仕事を終えて帰国した直後だったが、容体急変の連絡を受けて京都に駆けつけ、最期を看取ることができたという。告別式の弔辞で、蔵之介は晩年の父子関係をこう表現した。
「幼い頃に肩車してくれたあなたの背中を私がさすり、“熱はないか”とおでこに当ててくれたあなたの額に、私が同じようにおでこを当てるのです。病気になったことで、私と父の関係はより強く結ばれました」
震える蔵之介の声と重なるように、会場からすすり泣く声が漏れた。
※女性セブン2016年11月3日号