「私が韓国から弁護士を受け入れて研修させる活動をやっていたこともあって柳川さんと知り合いました。もう堅気になってからですが、『わしが直接出向くとかえって問題がややこしくなるような場合は代わりに行ってくれ』と頼まれて弁護を引き受けるようになったのです。かつてヤクザだったことをちらつかすようなことは一切なく、その筋の人が私の事務所に顔を出すこともありませんでした。一緒に飲みに行っても、混んでくると店に迷惑がかからないようすっと帰ってしまう。
柳川さんに頼まれて会長を引き受けた日韓友愛親善会の目的の一つは、在日に対する差別の撤廃を進めることでした。当時、在日にはローンを組めないといった法的な差別があり、その数は30に及んだ。選挙権を求める訴訟の団長に私がなると陰に陽に応援してくれました」
スポーツなどを通し日韓関係を改善し、国内では同胞の権利獲得を陰で支えた。かつて在日から「恥」と投書された男は、日韓交流の「顔」となりつつあった。ただし、表があれば、裏もある。柳川には、もう一つの顔があった。
「彼はポアンサの事実上の駐日代表だった」
公安調査庁で調査第二部長を務め、朝鮮半島の専門家でもある菅沼光弘はそう評す。ポアンサとは、韓国軍の情報機関・保安司令部のことだ。戦後の韓国では、長く中央情報部(KCIA)が対日工作を担った。しかし、1979年、そのトップが朴正熙暗殺(*4)の実行者となったことで、組織改編を迫られる。
(*4:朴正熙暗殺/1979年、KCIA部長で、朴正熙大統領とも古い友人だった金戴圭が、宴会中の同大統領を射殺。背景には、人事を巡るトラブルがあったという。)
代わって1980年代の韓国で治安維持を担ったのがポアンサで、機密情報の収集だけでなく、反体制派や親北勢力に対する拷問を辞さない苛烈な取り締まりで恐れられた。対日工作の司令塔となったが、手足がない。大統領暗殺後、東京の大使館や大阪の総領事館に駐在するKCIA要員が本国に召還されたからだ。そこでポアンサが頼ったのが柳川だった。
柳川の隠然たる力は、1980年代半ばには韓国政府の中枢に及び、日韓外交をも動かすことになる。
●たけなか・あきひろ/1973年山口県生まれ。北海道大学卒業、東京大学大学院修士課程中退、ロシア・サンクトペテルブルク大学留学。在ウズベキスタン日本大使館専門調査員、NHK記者、衆議院議員秘書、「週刊文春」記者などを経てフリーランスに。 近著に『沖縄を売った男』。
※SAPIO2018年5・6月号