この頃に柳川の秘書となったのが、小早川茂だ。本名は崔茂珍(チェムジン)。後にイトマン事件で背任容疑により逮捕され、日経新聞関係者にイトマンのスキャンダルをもみ消すため1000万円を支払ったと裁判で明らかにし、大騒動となった。
「柳川会長と初めてキタの焼肉屋で会うたのは、まだ20代の時ですわ。私は『組を解散するなんて、あなたは国家権力に負けたんですよ』って生意気を言うたんですが、会長は私を面白がってくれてね。『わしの事務所に来いや。日韓の橋渡しをして祖国に尽くしたいから手伝うてくれ』と。大学で学生運動をやったこともあり、会長が右翼活動に関わっても、『私には天皇陛下万歳なんかできませんよ』と言うたら、『それでええ』と」
小早川と取材で幾度か会ううちに見せてもらったのは、自ら書いた独立運動の闘士・安重根の評伝の草稿だった。強烈な民族意識の持ち主である、そんな小早川が惚れたのが柳川だった。
「柳川さんは度量が広く、『山より大きな猪は出てこない』が口癖でした。何があっても恐れることはないという意味やったんでしょう」
◆ポアンサの駐日代表
1975年、柳川は日本からレスラーを引き連れて韓国でプロレス興行を行った。朴正熙政権の求めに応じたもので、これをきっかけに大韓プロレスリング協会の名誉会長に就任した。
柳川が設立した日韓友愛親善会の会長を一時務めたのが、大阪・天満に事務所を構える弁護士の相馬達雄である。