解散の理由としては美談に過ぎる。実際には、当時獄中にあった柳川らが強制送還をちらつかされたという説や、柳川組の内部情報が府警に漏れ、組を支援していたスポンサーらに迷惑をかけかねない状況だったという説などがある。
柳川はヤクザの世界から足を洗い、名前を次郎から魏志(たかし)と変えた。姓名判断の大家につけてもらったとも、好きな漢字を選んで自らつけたとも言われる。柳川は自らのアイデンティティーを祖国に見いだそうとしたのだろうか、韓国要人たちとの関わりを深めていく。
取り持ったのは、東京の在日社会の顔役だった東声会の町井久之(*1)こと鄭建永(チョンゴニョン)だ。町井の紹介で、朴正熙の側近だった大統領警護室長の朴鐘圭(パクチョンギュ)と知り合った。
(*1 町井久之/1923~2002。在日韓国人。戦後、愚連隊を率い、東声会を結成。三代目山口組組長・田岡一雄氏の舎弟となるなど勢力を拡大。1966年に解散した後は、実業家に転身。釜関フェリー株式会社を設立し、六本木にTSK・CCCターミナルビルをオープンさせた。在日本大韓民国民団中央本部顧問を務めるなど、在日社会でも存在感を示した。)
日本語に堪能な朴は「俺は韓国の坂本龍馬」と自ら語り、親しくなった柳川と銀座で「同期の桜」をよく歌った。
当時の日韓両国は、1973年に東京・九段のホテルグランドパレスで起きた金大中事件(*2)や、翌年に起きた在日韓国人の文世光による大統領夫人の陸英修射殺事件(*3)によって関係が悪化していた。朴鐘圭から頼まれ、両国の関係改善に関わることにした柳川は、1974年に大阪で「日韓友愛親善会」を設立した。
(*2:金大中事件/当時野党指導者で、その後大統領になる金大中が、来日中に拉致され、5日後にソウルで解放された事件。後にKCIAの関与が明らかになっている。
*3:陸英修射殺事件/1974年、日本からの独立記念日(光復節)にあたる8月15日、祝賀行事中の朴正熙大統領を在日韓国人の文世光が狙撃。流れ弾が大統領夫人の陸英修に当たり、命を落とす。拳銃は大阪の派出所で入手。暗殺計画は北朝鮮の工作員が関与していたという。)