〈山口組系各団体のなかでも最も先鋭凶暴さを発揮し、一人一殺をもって鳴るのが柳川組である。朝鮮人団体独特の無恥不節操と、強大な組織による思い上がりから、近年山口組本家をも無視する傾向を露呈している〉
柳川組といえば、朝鮮半島出身者が多勢を占めているとされた。実際に柳川をはじめ主要幹部の多くがそうだった。だからと言って「在日=凶暴」とするなら、まったく違う。日韓交流に従事していた晩年の柳川に仕えた元秘書が語る。
「若い頃、やんちゃをしていたことがあって柳川さんと知り合い、秘書を務めるようになったんです。私が知り合った頃はもうヤクザでもなかったし、私も若かったからズケズケものを言った。『おい、あんた大丈夫か、あんな口利いて』と周囲に注意されたことすらありました。でも、実際は人の話はよく聞くし、筋が通った方でした。柳川さんは腹を立てると、事務所の二階で、書をするんです。それで気が鎮まると朝の5時半に電話してきて、『昨日の話やけど、何の根拠があってそんなこと言うんや、説明してみい』となる」
この元秘書はあるとき、柳川にヤクザ以外の選択肢はなかったのか、と聞いたことがある。
柳川は、ポツリとこう零した。 「暴力でしか生き残ることができなかったんや……」
柳川は過去の取材で、仁侠の世界に入ったのは差別がなかったからだと述べたことがある。柳川を継いで組長になった谷川は、もっと直截的な言葉でこう語っている。
〈日本の植民地政策で、われわれ韓国人は改姓令というもので、われわれの名前まで変えられてしまった。わたしは康という名前を谷川と変えられた。韓国人ということで、貧乏をおしつけられ、学校へも行けない。そして、日本に強制的に連れてこられた。移民なら移民で希望があるわけですけれども、最低の仕事をするために日本に来たわけですね。韓国人の労働が、日本人の豊かな生活を支える。そういうなかから、ヤクザも出てくれば泥棒も出てくる。(中略)そうなるとどうなるか。もう力のかぎり生き抜くよりほかに道はない〉(「アサヒ芸能」1976年6月19日号)