◆北朝鮮は1991年に「非核化宣言」
北朝鮮の「非核化宣言」は目新しいものではない。韓国と北朝鮮が1991年12月31日に仮調印し、1992年発効した「朝鮮半島非核化共同宣言」がある。
この宣言では、核兵器の開発禁止や関連施設への査察など、非核化のためのあらゆる事項が盛り込まれていたのだが、南北だけでは査察の具体的手続きを決められず、北朝鮮の核問題は米朝会談へ委ねられることになった。
「朝鮮半島非核化共同宣言」が発効し、米朝は1992年1月22日にニューヨークで会談を開始した。1994年10月21日の非核化や軽水炉の提供などを盛り込んだ「米朝枠組み合意」が調印されるまで、米朝はニューヨークとジュネーブで7回の会談を行ったが、合意に達するまでの道は平坦ではなかった。
会談開始直後、北朝鮮は国際原子力機関(IAEA)による核査察を受け入れた(1992年5月~1993年2月)。しかし、この査察により北朝鮮の保障措置協定違反が判明。それが1994年6月13日のIAEA脱退宣言へとつながった。
1994年3月19日に板門店で開かれた南北会談では、北朝鮮側代表による「ソウルは火の海」発言により緊張が高まった。同年6月13日のIAEA脱退時は、北朝鮮外務省が「国連の制裁は宣戦布告とみなす」という声明を発表し、さらに緊張が高まった。
このように「米朝枠組み合意」調印直前の米朝関係は極度に緊張していた。実際に当時のクリントン政権(1993年1月20日~2001年1月20日)は北朝鮮への武力行使を検討する会議を開いたが、金日成主席と会談したカーター米元大統領からの「北朝鮮が核凍結に応じた」の第一報により、武力行使は回避された。
しかし、北朝鮮との戦争を開戦させた場合、最初の90日間で米軍の死傷者が5万2000人、韓国軍の死傷者が49万人に上るという試算が出ていたため、いずれにしても武力行使に踏み切ることはなかっただろう。
こうした緊張状態から急転直下で「米朝枠組み合意」は調印された。その後も、ワシントン、ニューヨーク、ジュネーブ、ベルリン、北京、平壌で26回にわたり米朝会談が行われ、2000年6月には金大中大統領と金正日総書記との史上初の南北首脳会談が行われた。
米朝会談の総仕上げは、2000年10月10日に金正日総書記の特使として訪米した、軍のトップである趙明録朝鮮人民軍総政治局長(国防委員会第一副委員長)のクリントン米大統領との会談だった。
この時の一連の会談で両国は融和ムードを演出した。特に米国は、大統領、国務長官、国防長官がそれぞれ趙明録特使と会談するという異例の厚遇を示し、高いレベルでの米朝対話の定着を目指す姿勢を強調した。