原敬首相が東京駅で暗殺された大正10年、芸術学部の前身となる美学科が法文学部に誕生。戦後の昭和24年、芸術学部として独立すると、篠山紀信や高橋英樹ら著名人を多数輩出。昭和42年に落語研究会に入った高田の同期には、“名人”の呼び声高かった古今亭右朝がおり、1年後輩には映画『家族ゲーム』の森田芳光監督がいた。
舞台の後半、高田、志らく、一之輔がフリートークで日芸について語った。高田は「普通は卒業証書なんだけど、俺たちは領収書をもらうからね」とボケまくり、志らくや一之輔が話している間も茶々を入れまくる。「30秒で済む話が3、4分かかる」と志らくに突っ込まれてもどこ吹く風、当代随一の落語家2人も先輩・高田の毒気に形無しの一日だった。
終演後、志らくは感慨深げに語った。
「若手の頃は一緒に舞台に出ても全然しゃべれず、高田先生から『志らくはフリートークは苦手だな』といわれていたんです。あの方に突っ込みを入れるなんてありえなかったし、しゃべっている途中でそんな昔のことを思い出しました」
日芸の大御所である高田に、「今日は一番ウケていましたね」といえば、事もなげにこう言い放つ。
「腕が違うよ。誰に口聞いてるんだよ(笑い)。なんたってこの日のために血の出るような漫才の特訓をしたんだ。連日1000本ノックだよ(笑い)」
すべてをギャグにして煙に巻き、境界線ギリギリを攻めるエッジの利いた“日芸魂”を垣間見た貴重な一日だった。
◆撮影/二石友希 取材・文/岡野誠
※週刊ポスト2018年8月3日号