福岡で育ったあゆは幼い頃に父親が蒸発し、母親と祖母の3人で暮らしてきた。小学生の時にスカウトされてモデルデビューを果たした後、母や祖母とともに上京。女優として活動し、家族を支えるようになる。そんな中、東京・六本木のディスコ・ヴェルファーレのVIP席で出会ったのが、当時エイベックスの専務でカリスマプロデューサーとしてヒット曲を生み出していた松浦さんだった。
本書ではあゆのデビュー秘話についても触れられている。
《専務は、三人か四人のグループにして、そのボーカルに私を、と言った。(略)私には無理。グループの中では自分を表現できない。(略)小学校の通信簿にも、六年間、協調性の欄に「努力しましょう」と書かれていた。(略)一人でいれば、人の顔色をうかがわず、自分のペースで生きることができる》
そう考えたあゆは、松浦さんに「一人で歌わせてほしい」と直談判し、ソロデビューが決まったという。
やがて松浦さんに対して恋心を募らせるようになったあゆ。彼女は楽曲のほとんどの作詞を手掛けているが、当時の詞に綴られていたのは、松浦さんへの切ない恋心だった。
《頭に思い浮かぶ語彙のすべては、その人への想いの偽りのない反映だ。(略)ノートに書いた文章は、つまりラブレターだった》
1998年、ついにデビューを果たしたが、当初の評判は芳しくなかった。一方で、彼女にかける松浦さんの情熱はすさまじく「浜崎あゆみは人気が出ない」と言い放つテレビマンに殴りかかろうとしたこともあったという。
次第に思いを抑えきれなくなったあゆは、松浦さんに気持ちを伝える。そして、離婚し独身に戻っていた松浦さんは、あゆに運命的な告白をした。
《私がドアを開けると、スーツを着た専務が立っていた。そして、(略)母に一礼すると、こう言った。「あゆみさんと付き合っています。真剣です」》
互いの思いを確認した2人は同棲を開始。あゆは15才年上の松浦さんのことを「マサ」と呼び、忙しい合間を縫って愛を注ぎ合った。交際に気づいたエイベックスの幹部らが猛反対したが、松浦さんは周囲を説得したという。
《恋愛に勝るパワーはない。マサのそんな呟きを一、二度聞いたことがあって、私は勇気凛々だった》
ブレーク目前の歌姫とプロデューサーの禁断の恋。決して世間に知られないよう細心の注意を払い、あゆは携帯電話の電話帳に愛する彼を「M」と登録していたという。