もともとアルコールチェック体制が緩かった日本の航空業界には、欧米で定められているアルコール濃度の基準値が存在せず、安全性の確保は各社の裁量に委ねられてきた。だがロンドンの事件を機に一気にルールが厳しくなり、国交省はパイロットのアルコール検査を義務化して、飲酒後8時間以内の飛行勤務を禁じた。各社も独自に規制を強化し、例えば日本航空は、滞在先については乗務前24時間以内の飲酒を禁じる。
しかしこうした規制強化だけでは「パイロットのストレスを増す」と杉江氏は指摘する。
「これでは運航宿泊先で食事をする際にビール1杯どころかアルコール1滴も飲めず、現場のパイロットはストレスで追い詰められます。オペレーションの現実からかけ離れたルールによって現場の士気は大きく下がっています。
いま日本航空や全日空のパイロットの一般的な年収は2000万円台ですが、中国や台湾の航空会社は4000万円ほど。現実的ではない飲酒規制に嫌気がさして、外資系に移るパイロットも増えている。そのためさらに操縦士が不足して、労働環境が悪化する悪循環が起こっています」(杉江氏)
何よりも心配されるのは、過酷な労働環境がフライトに与える影響だ。2017年にハーバード大学公衆衛生大学院のチームが『Environmental Health』に発表した研究では、アンケートに協力した1848人の民間パイロットのうち233人(12.6%)が、うつ病(大うつ病性障害)の診断基準を満たす状態だった。また調査までの2週間に自殺を考えたことがあるとした回答者が4%に達した。
「2015年3月に発生したドイツの格安航空会社・ジャーマンウイングス9525便の墜落事故では、うつ病の既往歴がある副操縦士がフライト中に故意に機体を墜落させて、乗客乗員150名が犠牲になりました。長年のトレーニングで鍛えられたパイロットも生身の人間であり、過度のストレスは精神的な問題を引き起こす怖れがあります。
うつ病までいかなくても、過度のストレスは不慮の事故を招きます。実際に航空業界ではパイロットの飲酒による事故より、パイロットの疲労によって引き起こされる事故のほうが圧倒的に多い。各社は早急に操縦士の労働環境を見直すべきです」(杉江氏)
なぜパイロットは搭乗前に大量の酒を飲んでしまうのか──この問いの背後には、飲酒以上のリスクが潜んでいるのだ。
●取材・文/池田道大(フリーライター)