佐々木はドラフトで競合必至
土屋は前年の夏の甲子園で2年生エースとして江川卓(作新学院)と対戦、延長12回を投げ勝ったこともあって最注目投手だったが、中日入団後は11年間でわずか8勝。一方、巨人入りした定岡は江川、西本聖と並ぶ3本柱として活躍した。
「土屋は“江川に勝った男”として名が知れわたり、2年秋から3年夏にかけて全国から招待試合の申し込みが殺到。投げすぎで入団前から肘や肩はボロボロになっていたようだ」(ベテラン記者)
◆荒木大輔の抽選を外した巨人は斎藤雅樹を獲得
1981年の注目株は、同じ愛知県のライバル、槙原寛己(大府)と工藤公康(愛工大名電)だった。2人は愛知県代表の座を奪い合い、春は槙原の大府、夏は工藤の名電に軍配が上がった。
工藤は夏の初戦でノーヒットノーランを達成するも、準決勝で報徳に敗れた。槙原はセンバツで金村明義擁する報徳学園を下した。
槙原は地元の中日か、ファンだった巨人以外なら社会人に行くと宣言。工藤は社会人の熊谷組に内定しており、指名が見送られると思われていた。
「ドラフト会議当日、巨人が槙原を単独1位指名すると会場がどっと沸きましたが、それ以上にどよめいたのが、西武が工藤を6位指名した時でした。監督から管理部長としてフロント入りした根本陸夫さんの“根本マジック”が炸裂し、“球界の寝業師”と呼ばれる所以となった」(同前)