なぜ、原は4番に座った3年目の1984年から調子を崩していったのか。
「前年の日本シリーズで、東尾修を中心とする西武投手陣が執拗に内角を攻め、原の打ち取り方をセ・リーグに示した。また、1983年に原の後ろに控えていたレジー・スミスが年齢的な衰えもあり、打てなくなった。1984年に来日したクロマティは最終的には35本塁打、93打点を挙げたが、シーズン序盤は苦しみ、7番に座ることもあった。原へのマークが厳しくなった上に、周りがカバーできない状態が続いた」
一番の原因はチームが勝てなかったことだろう。
「この年は巨人軍創立50周年で、秋の日米野球では前年のワールドシリーズの王者であるボルティモア・オリオールズを迎えて、日本一のチームが戦うことになっていた。読売新聞主催の行事であり、巨人は絶対日本一になることを求められていた。それなのに、開幕から波に乗れず、チームは下位を彷徨っていた。そのような時、叩かれるのはエースと4番なんです。1984年の巨人で言えば、江川卓と原辰徳でした」
4番2年目のシーズンでMVPと打点王を獲得した原辰徳は日本シリーズで西武に3勝4敗で敗れている。この時、日本一になっていれば、世間の風向きもまた違っていたかもしれない。同じことは今の巨人にも当てはまるだろう。
「阿部のいなくなった来年こそ、4番・岡本の真価が問われる。そのためにも、岡本が今年のクライマックスシリーズや日本シリーズでどれだけ打てて、チームが日本一になれるかどうか。ポストシーズンに、岡本の2020年以降が懸かっていると言っても過言ではありません。原は入団1年目に日本一を経験しているが、当時は主に6番を打っており、次の日本一は入団9年目だった。岡本が4番2年目で日本一になれれば、間違いなく自信になる」
岡本が名実ともに巨人の4番に成長できるかどうか。これからの1か月は野球人生の大きなターニングポイントになりそうだ。(文中敬称略)