当時は先発のリリーフ兼任も多かったが、板東はリーグ最多完了をマークした2年とも先発は1試合ずつだった。近藤はロッテの投手コーチを経て、1972年から再び中日に舞い戻る。そして、星野や鈴木の適性を見定めて、抑えとして起用した。
「近藤は度胸の良さやスピードボール、決め球を持っていることをクローザーの条件と考えていた。これは、今も変わらない要素です。また、当時から投手の球数を数えて、交代の指標にしていた。『打たれる前に早めに代える』がモットーで、マウンドで先発投手から強引にボールを奪うため、“もぎりの近藤”というニックネームまで付いたほどです。先発完投が主流の時代に、投手分業制を唱え、投げ過ぎにも警鐘を鳴らしていました。1966年のオフにデトロイト・タイガースの教育リーグに参加して学んだことも大きかったと語っています」
中日は1980年、12年ぶりに最下位に転落。オフに監督として招聘された近藤は高卒2年目の牛島をリリーフに回し、1982年には抑えを任せた。この配置転換が功を奏した同年、中日は巨人を0.5ゲーム差で振り切り、8年ぶりにセ・リーグを制した。
現役時代に近藤に抑えを任された初代セーブ王の星野仙一は1986年オフ、監督になると2年連続3冠王の落合博満をロッテからトレードで獲得。交換要員の1人だった抑えの牛島の穴は、先発で4年連続2桁勝利を挙げていた郭源治が埋めた。
「雄叫びを上げる気合いの入った投球を見せる郭は翌年、7勝37セーブの44セーブポイントを挙げ、当時のシーズン記録を更新。優勝の立役者となり、MVPに輝きました。星野監督は自分の現役時代の経験から、郭が抑えに向くタイプと見抜いていたのでしょう。近藤貞雄コーチから始まった伝統を受け継いでいたのです。郭が故障した1990年には、現監督の与田剛が抑えを務め、ルーキーで最優秀救援投手を獲得しています」
星野は第2次政権の1999年には抑えの宣銅烈、中継ぎの落合英二、岩瀬仁紀、正津英志などを使いこなし、チームを11年ぶりの優勝に導いた。2004年、監督に就任した落合博満は入団以来中継ぎの岩瀬を抑えに回し、中継ぎには岡本真也、平井正史、落合英二を揃え、5年ぶりの優勝を果たした。
「落合監督は就任時に、鉄拳制裁もあった星野野球からの脱却を図りました。ただ、後ろの投手を重視する姿勢は星野監督と変わらなかった。もちろん、当時は既に分業制が確立しており、特別なことではありませんが、この年の中日の完投は8でリーグ4位。継投策でセ・リーグを制しました。連覇を果たした2010年、2011年には浅尾拓也、岩瀬仁紀という鉄壁のリリーフ陣が他球団に立ちはだかり、浅尾は中継ぎ投手として史上初のMVPに輝いた。伝統的に、中日にはリリーフ投手が育つ土壌がある」
権藤博の故障を真摯に反省し、板東英二の抑えの適性を見抜いた近藤貞雄から始まった中日のリリーフ投手の歴史は、現在まで受け継がれている。